の世界
59 イチリンソウ 20013
イチリンソウ

-北海道 七飯町大沼-

 この冬は寒くて、雪が多くて春は遅くなると思っていたのに、思った以上に早く春がやってきてがっかりしています。春分をこえる頃からとても暖かくなり、おまけに風が強くて、雪解けが急速に進んでいきました。いつもならなかなかそう簡単に溶けて行かなくてもじもじするのに、今年はアッという間になくなっていきました。
 丘のうえの小さな写真館の庭の雪解けを観察していると、3日間くらいで融けてしまったんです。するとそこからはミントがもう黄緑色の新芽を出していたし、クリスマスロ−ズは濃い緑色をしていました。クリスマスロ−ズは建物の日陰しかも、融けた雪が屋根を伝って落ちて厚い氷で覆われる場所に植えられているのに、その厚い氷の中から出てきたその姿は生き生きとしていました。
 雪が融けて出てくるというのではなく、氷が融けてその中から出てくるという感じでした。今年こそ、作品にできるような花が咲けばいいなあと期待しています。さっき、今年の冬は寒くて、雪が多かったと言いましたが、
寒いと、必ず雪が多くなるみたいです。これは日本海の海水温と気温の差が大きくなり、蒸発量が増加するからだそうです。

 
それにしても日本海というのは不思議な存在です。3月は小野有五先生の『北海道の自然史』という御本を夢中になって読んでいましたが、かつて日本海は今のように温かい海ではなく、寒冷で淡水化した“死の海”であったといいます。
 
今では日本海を対馬暖流が北上して、そのおかげで、シベリアから吹いてくる冷たい季節風との間に温度差が生まれ、日本海の水は蒸発して、それが日本に運ばれ、たくさんの雪を降らせるのです。
 


■オホーツク海は死の海

ところで、かつての日本海に相当するのが、今のオホ−ツク海だといいます。オホ−ツク海はまさに“死の海”なのだそうです。冬になると流氷が、オホ−ツク海に接岸することはよく知られています。実はこれが死の海であることを端的に物語っているのです。流氷はロシアのアム−ル川の膨大な淡水の流入で生まれますが、淡水は海水よりも軽く、海水表面を覆います。その結果、浅い水たまりが凍りやすいのと同じように、表面が凍りそれが流氷となって、北海道のオホ−ツク海沿岸に押し寄せるのです。そして、この海水面を覆う淡水層とその下の海水層との垂直混合が簡単には起こらなくなり、海水層への酸素の供給が途絶え、生物が棲めなくなるといいます。今のオホ−ツク海は大きく見ると、このような貧栄養の世界であり、同様にかつての日本海は貧栄養でありました。そのため、今のように豊かな生物資源を誇ることはなく、更に雪を日本に運んでくることもなく、我々は今のような豊かな生活を送ることはできなかったのです。つまり、函館近郊はイカの大きな漁場として知られることをトップに、日本海一帯が豊かな漁場になっています。そして、日本海から供給される、膨大な水分は日本海側に豊かな森を造り、生活の基盤となる水、そして、温暖な気候を約束してくれます。だから、どう考えていっても、今の日本の豊かさは日本海のおかげであり、対馬暖流のおかげだとつくづく思います。もし、そこに日本海がなかったら、こんなに人が住めるような環境にはなれなかったわけですね。この日本海についての詳しい話しは次回の写真館通信にまとめますので期待してください。
 

 ですから今回お送りします、イチリンソウが咲くこの豊かな湿地帯も、大きく見ると日本海のもたらす、水分によって支えられているわけなんです。今回の作品は函館郊外にある大沼、正確には小沼沿岸に広がる湿地に咲くイチリンソウの群落です。 
 作品として美しさや派手さは無いのですが、この作品を今回選ばせてもらったのは、3月から4月にかけての北国の雑木林の雰囲気を見てほしかったからです。雪が溶けて、荒れ果てたように見える雑木林の中で、まず咲き始めるのがこの白く小さなイチリンソウの花で、所々に小さな群落をつくります。北国の雑木林や森の春はこのような地味な世界です。イチリンソウも小さい花で、想像以上に地味なものです。
 しかし、この繊細な清楚さと半年ぶりのお日様の温もりは、何にも変えがたい雰囲気をかもし出してくれます。本当の北海道の姿は観光雑誌などがつくり出す北海道はのイメ−ジとは違って、奥ゆかしい現実的なメルヘンがそこにはあるように思います。


■「現実的なメルヘン」
……なんだそれ?とお思いになるかもしれませんが、ぼくはこれが一番大事だと、慶ちゃんなどにはよく語ります。
彼女は絵を描くのですが、とにかく現実を観察して、書くように薦めています。自分の空想やイメ−ジはつくられた既成のものがあったりするから、まず、それを投げ出して、現実の世界で感じられる世界の雰囲気を写すようにと、お願いします。だから、結局色々と走り回って感じるところをスケッチしていくことになるわけですが、彼女の描く世界はこの世のどこかにある真実の世界、モデルとなる世界があるわけです。絵で描くことと写真で表現する世界というのは違った良さがあるもので、写真では絶対表現できない世界を絵で表現できることはすばらしいことだと思います。だから、彼女はよく私のライバルはポ−タ−だと言います。ポ−タ−のリアルな自然観察を目標にしているようですね。
 

 イチリンソウの咲く向こうに、水芭蕉が出かかっているのが見えるでしょうか?ここ大沼は水芭蕉も美しいところで、これまたあまり関心がないおかげでよく保存されています。水芭蕉を写すのは難しく一番花が美しく見える時は1日〜2日しかなく、後は葉っぱが大きくなりすぎたりして、見た目に美しくはありません。
 しかし、その葉っぱの大きさにはびっくりさせられます。水芭蕉の作品はお見せしたことがないのですが、なかなか気持ちよさそうな作品があります。いつかお見せしたいと思っています。ぼく以上にすばらしい水芭蕉の作品を野呂さんという函館の写真家が写されていますが、あんなにきらきら輝いている水芭蕉を見たことがありません。大沼のカレンダ−の一枚になった後、誰の目にも触れなくなってしまうにはもったいない一枚だと思います。
 自分の作品を何度も何度も見て、実際の季節ははもっともっと透明で、輝いているのになあ、と思います。季節の輝きと言うのでしょうか?これを思い残すところ無く写すためにはやはり、夢中になるしかないんでしょうね。
 あの仕事があって、この仕事が残っていて、なんてやっていると、絶対に写しきれない……。この輝く季節のために、夢中になる時間がぼくにも、誰にも、必要なのだと思います。今、目を閉じれば、きらきらと輝く水辺に咲くフキノトウが思い起こされます。ちょろちょろと流れる小川の縁に点々と咲く水芭蕉の姿を思い起こします。この春、ぼくはどれほどの数の輝きと出会えることでしょうか?楽しみです。皆さんもどうぞ、春の輝きを探しに出かけてみてください。もし、出会えたら、教えてください。お待ちしております。
 
 

■天体観望会 

 昨日、大野町という函館に隣接した町の「自然に親しむ会」のお手伝いで、天体観望会をやってきました。天気は昨日までの暖かさとは裏腹に吹雪模様で、星を充分みんなにお見せすることができませんでした。函館に来てから、このような天体観望会に参加することは初めてだったので、とても刺激的でした。
 今は土星と木星とが、すばるの側にあって、子供たちを中心とした観望会にはもってこいです。とにかく土星と月がないと初めての人にはなかなか伝え切れません。子供たちは、望遠鏡のどこを覗いたらいいのかも、どのくらい目を近づけたらいいかもわかりません。しかも、ぼくのアイピ−ス(望遠鏡の覗くところにつける接眼レンズのこと)などは初めての人が簡単にのぞけるような高級なものではなく、安いものだったので申し訳なかったと思いました。なにせ、写真を写すための望遠鏡なので、人様に見ていただくことを考えていなかったのがよくありません。
 これから、もしこんな会に参加していくようなことがあったら、誰にでも簡単に覗けるような接眼部をそろえようと思いました。なにせ、ぼくの望遠鏡は函館などでは、一番よく見える望遠鏡ですから、これを撮影だけに使うのは、宝の持ちぐされだと思いました。観望会の初めの頃、お客さんの少ない頃はよく晴れていて、土星や木星がまずまず見えていたのですが、ぼく自身久しぶりに見たなあ〜!という感じで、嬉しかったです。土星って輪があるんだ!という新鮮な気持ちです。かつて、神戸の家の前で、近所のおばさんに土星を見せてあげたことがありました。すると、彼女は望遠鏡の中を覗き込んで「貼り付けてるんじゃないの?」と言います。確かに神戸など、瀬戸内海は気流が安定していて、惑星がよく見え、その時も本当によく見えました。土星の輪が二本に見えるのは普通なのですが、これが3本にも4本にも見える感じです。惑星の撮影となると、たいへんなことになるので、ぼくは手を出しません。もっぱら見て、見てもらって、楽しみたいと思います。
 
〈追記〉
この3月は写真館通信を書くのに、色々と調べているうちに過ぎていきました。今回は写真館通信は少し、社会性を帯びたような気がします。しかし、調べれば調べるほど、これらは純粋に社会単独のことではないように思えてきます。北国通信の方も、写真館通信に関することやその他、自然、社会などについて、何でもいいのでご意見ください。お待ちしています。欄が余りましたので、最近思うことを以下に記してみます。

■北大のポプラ伐採について
   
 先月、北大のポプラ16本が伐採されることを紹介しました。小野有五先生たちの反対によって今は小康状態が続いていて、とりあえず今は伐採されていません。北大の施設係というところが担当しているのですが、そこに電話してみますと、伐採はされていないという事実だけ伝えられましたので、一市民として「ポプラの伐採はしないでください」とお願いしました。もし、このことに関心がある方がおられましたら、是非、北大の施設係りに電話してみてください。

■禁漁河川について
 
 先日小学校の先生に聞いたことで、函館の東にある汐泊川という禁漁河川でのこと。
この川が禁漁河川だということで、子供たちをそこに連れていくこともできないと言うのです。
 禁漁河川は資源保護の立場から、そこで、いかなる生き物も採取することは禁止されています。そのため、たくさんの魚が豊富にいて、子供たちも、巡視のすきをぬって、魚を捕りにいったりするそうです。目の前に豊かな自然があって、それに近づくことさえ許されないというのはおかしいと、その先生は思っています。そもそも、禁漁河川にするのはモラルのない大人が、遡上してくるサケの卵だけを捕って、サケ本体はそこに捨ててくるといった、モラルのない密漁の防止が目的です。そんな大人のせいで、子供たちが目の前にある自然に近づくことさえ許されない現実とは何でしょうか?そして、資源保護のために禁漁河川にしているから、ここで魚を捕ってはいけないんですよ!と教えることができない教育とは何でしょうか?先生は首をかしげられておられました。豊かな自然を目の前に魚を捕るわけでもなく、川に近づくだけでもいけないとする、風潮にぼくも疑問を持ちます。こんな風潮の中で、子供たちの教育のために水族館を造ると言います。この汐泊川のような子供にとってタブ−のような自然が他にもあるのですが、自然、科学離れが一部の大人のモラルのなさのために加速されていることが悔しくてなりません。