今年の春の北海道は例年になく晴れる日が多くて、嬉しい悲鳴です。例年、この季節は晴れることが自体が奇跡で、ぼくは ずっと泣かされてきた。しかし、今年は晴と雨が定期的に繰り返して、実に理想的な季節が運行している。しかも晴れるとものすごい透明度で、普段は遠くにかすんであまりよく見えない風景が、目の前にあるかのように見える日が多い。
今年の北海道の5月は10年来で最も美しく輝いている。
そんな美しすぎる風景に首をかしげながら、そして信じられない信じられないとつぶやきながらぼくたちは北海道の道南を来る日も来る日も巡り歩いている。写真館通信でも紹介した松前半島に君臨する大千軒岳をはじめ、遊楽部岳、狩場岳(アイヌ語でカリンパヌプリ=桜の多い山)などを主に巡り、明日には山つつじが満開の恵山に行こうと思っている。
山つつじもさることながら、恵山にはサラサドウダンという釣り鐘状の小さい花を咲かせるつつじがいっぱいある。しかもそのどれもがブナのような樹肌の立派な樹が山道の両脇に咲き乱れていて、まさにサラサドウダンのトンネルのような状態だ。
6月の初旬に満開を向かえるはずだからもし行けたら行って欲しい。ぼくはサラサドウダンを写し終えたら、6月には知床の方へ行って来ようと思っています。6月、知床や道東域に遅い春が来る。以前、6月頭に知床で山桜が満開だった。何と遅い春の訪れなのだろう。春は遅くやってきて、夏が来たかと思えば海霧で毎日が霧の日で、そして、冬は底知れないほど寒い釧路や根室、日本一厳しい環境なのではないのかと思ってしまう。せめてもの救いは冬には晴れる日が多いことかなあ。旭川、その近郊は冬になると全く晴れない。ず〜っとうっとうしい曇りの日が続く。旭川やその近郊での冬の晴れはこれぞまさに奇跡なのだろう。しかもものすごく寒くなる。日本の最寒記録は朱鞠内湖の北岸、母子里(もしり)と言うところだと聞く。雪が多くものすごい寒いのが旭川など内陸部と日本海側。釧路、根室などは雪が少ないし、晴れる日が多いので少し救われているが、その分夏に全く晴れない。夏に晴れるということがどんなにありがたいことか、釧路の人はそう思い、冬に晴れることをどんなにか旭川の人は待ち望むのだろう。
ここ函館はその中間位だと思うが、細かく見ていくと、今回訪れた道南の遊楽部や狩場山も本当に晴れることがない。山自体はそんなに標高があるわけでもないのに、なかなか全貌を現さない。そのどちらもが山深くブナ林に覆われていて、ものすごい量の雨を蓄積し、晴れればすぐにそれを蒸発させ、曇っていく。そして、やがて厚い雲になり雨が降り出す。山や森の樹木が雲を作り、雨を降らせてまた自分たちをうるおしている。ここで、自分たちをうるおすために吸い上げた水が樹木の身体を通り抜けたり、また、降った雨が樹木の身体を伝って流れるだけで、その水はただの水ではなくなり、清められ、ミネラルが増え、とてもうまい水になっていくという。更に樹木は光を葉に受け、この世で唯一のエネルギーの生産をやってのける。このような樹木が山全体を覆っているので、なかなか晴れてすっきりとした山風景を写すことは難しい。特に豊かな自然が残る山域ほどぼくは難しいと思う。
■そんな狩場がぼくたちの前に全貌を現した。
しかも一日中。その日は今年初めて狩場山登山口の所まで行ける日だったが、函館から向かうその途上、気が変わって山には行かず、近くの牧場から写したいと思った。その昔、暗い写真ばかりを好んで撮っていた頃来た記憶をたどりながら、慶ちゃんに車を走らせてもらった。すると、想像を遥かに超えた美しい世界が目の前に広がった。遥かに続く緑の牧場の向こうに残雪が豊かに残る狩場山が見えた。珍しく、白樺とトドマツの防風林が背中合わせになって狩場山に向かって延び、そこをさわやかに春の風が渡り、白い雲が走り抜けていった。ぼくたちはほんの小さな道も見逃さない。砂利道の小さな小径を見つけて、そこを入っていくと牧場の中に一本の道が続いていて、まっすぐに狩場山にむかって延びている。その道は行き止まりになったがその道を少し左に入ってみると、待ってました。天国のように美しいところだ。これだから道南はやめられない。意外にも天国と紙一重のような所があって、信じられなくなる。ここもそうだったが、別の場所でもそんなところがあった。サイロのある典型的な牧舎がついた家屋だったが、それはすでに壊されていた。しかし、その側の牧草地の中には二本の白樺が仲良く立っている。
■日本の白樺の木とカッコウ
ぼくが夢中で二本の白樺を写していると、カッコウがしきりに出たり入ったりする。何だろう?と思って注意してみると、白樺の葉陰に巣が造ってある。どうもカッコウの夫妻が巣を造っていてこれから子育てをしようとしているらしい。カメラマンやテレビの人なら踏み込んで写そうとするところだろうがぼくはそれを知ってそそくさと帰ってきた。牧舎には老夫妻が住んでいて、彼らが植えたのだろう白樺が寄り添い育っている。そして老夫妻がこの世を去って、牧舎も取り壊されたが彼らの植えた白樺だけはそのまま残り、仲良く今年も緑の葉を茂らせる。そして、そこにはカッコウの夫婦。そこに住んでいた老夫妻がカッコウになって天国から戻ってきたのだろうか?そんなことを慶ちゃんに話すと「また始まった」という顔をされる。しかし、真剣にぼくはそうに違いないと思っている。愛は永遠なのだとぼくは思うのだ。ならば人がカッコウになって歌っていたって不思議ではない。
■今月の作品
この二つの天国を経てたどり着いたところの牧場が今回お送りする作品。どうしてこれを選んだかというと、あまりにはまっていたから。あまりに北海道らしい風景が突然眼前に現れてびっくりしてしまった。背景に見えているのが狩場山で、ここはそこに続いていく、うねうねと続く丘のような牧場、そして草をはむホルスタイン。
最近、このような北海道らしい風景が意外とない。ホルスタインが草をはんでいる光景に出会うこともなかなかない。また、運良く出会っても、平地だったりして写真にならなかったりする。今回ばかりはあまりにはまっていてびっくりしてしまった。ぼくたちはしばらくここでしきりに写させてもらった。楽しい撮影だった。珍しく、ニコンを使って、軽やかに写していった。
ここを過ぎると、牧場の中を道は南に折れる。しばらく行くと、日本海が見えてくる。緑の牧場のすぐ向こうで、午後の光の中に輝く日本海が美しかった。振り返れば少し遠くなった狩場山とそれに続く広大な牧場にあっけにとられた。すごい広さだった。日本海から吹いてくる強い風が牧草を力いっぱい揺らせていた。牧草が揺れるたびに、日の光が銀の波のように牧場の中を寄せ返した。何もかも平和だった。そして美しかった。名残惜しかったがここを去って、国道に出る。国道をできるだけ速いスピードで狩場山に向かった。もう夕方の四時を過ぎていた。残雪とブナの新緑をどうしても写したかったのだ。しかし、すでに遅かった。もうブナ林の林床にはほとんど雪は残っていなかった。「あ〜あ、今年もダメだった」ぼくはため息をついた。狩場の残雪とブナ林はもう4年越しの宿願である。去年いやな仕事で絶好の機会を逃してしまっていただけに今年にかける思いは強かった。しかし、今年一番に来たというのに雪がない。また、来年来るしかない。写真をやっていると、何もかもこんな感じで、願いを果たせないと一年、また一年と、大またで時間が過ぎてしまう。一年は長い。一年間果たせない思いを貯め込んで、果たしたときの快感はたまらないが、また、今年もダメだったというときの失意も大きい。またきっと来るぞ!と五分後には気持ちを入れ替えていた。
残雪がダメならと、千走川の流れだけでも撮ろうと思って、車を走らせた。まだお日様の光は残っていた。千走川の流れは、ものすごい轟音とともに流れ下っていった。ものすごい水量だ。川から遠く離れた釣り橋の上だというのに川の音で話しができない。是非是非ここに来てこの川の流れをみんなに見て欲しい。生きている自然の力強い美しさを感応して欲しい。写真には音まで写せない。写真は事実を越えることができない。正確には言うと、写真はすごいものを写すのは苦手だと思う。むしろ、そうでもないものを誇張する方が得意なのだと思う。つまり、結果的に写真は自然を平均化しかねない。特に印刷は平均化に拍車をかける。例えば今日久しぶりに夕刻の東空に映る、地球の影を見た。ぼくはこの地球の影が空に映ったときの色彩が好きなのだが、これを写すのは非常に難しい。ちょうど薄くピンクに染まった東空の地平線沿いが青くなっていく。この青い部分が地球の影だといわれている。この淡いピンクから青にかけての微妙な色彩がなんとフイルム上であまりきれいに再現できない。たいがいの自然界の微妙な色彩はフイルム上では再現できるのだが、こればかりはフイルムで再現できたためしがない。今度チャンスがあったら、もっと細かく露出を与えて見ようと思っている。
他にも例えば、まぶしいばかりの新緑と思って、感動して写してみても写真となってできてくるとつまらなかったりすることがある。そうかと思えばその逆もある。感動をそのまま写真にすることは、難しいことなのだとつくづく思う。
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