最近、大雪山のことと星のことが何度も頭の中に出てくる。夜、横になり、天を仰ぎながら想いを巡らしていると、たくさんのことが頭の中を駆け巡っていく。そんな時、大雪のことと星のことが出てくる回数が多くなった。
今回の作品は1995年9月17日に撮影したもので、大雪山高原温泉の秋風景です。今年は、仕事と病気が重なって、結局大雪の紅葉に出かけることができなかったので、過去に写した作品を見たり、想いを巡らして我慢しています。そして、行けないとなると、行く以上に想いの回数と強さは増していきます。同封した写真館通信では夏の大雪山のことを紹介しているのですが、秋もまた、ここはすばらしいところになります。今年、秋にもここに来ようと思っていたのですが、来れなかったわけです。「白鳥のキッス」というポストカ-ドにある白黄色の花はチングルマの花で、これが秋になると赤く紅葉して非常にきれいになるのです。ぼくがチングルマに初めてであったのは、父の撮影した紅葉したチングルマで、その写真が父の他のどの作品よりも美しかったことをよく覚えています。そして、しばらくしてから、花とも出会うことになります。
チングルマの紅葉もさることながらタカネナナカマドの紅葉は今月の作品にあるように非常に美しい。この白鳥のキッスを写したところからしばらく進んで、北海岳への上りにさしかかったところから、北鎮岳方向を見ると、ものすごくきれいです。今年はここに来たかったのですが、願いはかなえられませんでした。もっとも、秋の大雪山はどこもきれいなのですから、天気さえよければ最高の想いはかなえられます。北国では秋になると独特の緊張感が漂ってきます。この感覚は言葉にはできません。独特の感覚なのですが、大雪山に行くと、この感覚が極度に強く感じられるようになります。この感覚を感じたくて行くということもあるでしょうし,その感覚のことを想っただけでも、身震いが起こってきます。とにかく、この感覚は北国特有のものなので、本州の方には是非とも味わってほしいものです。写真にはこの感覚は残念ながら写りませんが、一度この感覚を味わった人が写真を見ると、ぞくぞくしてくるような写真はあるように思います。ぼくは観光というのはこのようないい知れぬ、普段とは違う感覚に出合いに行くことだと思うのですが、なかなかその地方独特の言葉にできない感覚は伝えきれませんし情報になりにくいものだと思います。そこで、ここではこの感覚の宣伝をしているというわけです。頭で考えたり、理屈で考えたりすることを超えた感覚を経験することは、生きている実感そのものなのだと、ぼくは強く思っています。
普段、函館という観光地で仕事をしている自分にとって、観光というのはどういうものなのか、と考える機会は普通よりは多くあります。その中で、ぼくは観光客の人よりも観光客の方を迎える側の方がより形骸化してきているということを感じます。しかし、ある面では観光客の人も多くの場合、形骸化している人も多いなあということも実感します。函館の元町地区をこれからの時期写していると、必ず多くの観光の方々は坂道に植えられている、ナナカマドの美しさに魅了されて、老若男女問わず、感動されます。しかし、観光の受け手側はナナカマドが観光客の方々に感動を与えているということは知りません。
次から次へと、観光名所を案内して回ればいいと思っています。ナナカマドのかもし出す雰囲気は秋の元町を語る時にかけがえのないもので、特に大三坂のナナカマドと亀井勝一郎邸のピンク色の洋館のコンビネ-ションは美しいと思います。もちろん、大三坂といえば観光地の中心なのですが、そこからわずか、10m離れるだけで、人は来なくなるのが普通です……。
そして、この時期特に、観光地域から少し離れて、函館山山麓に広がる生活地域に一歩足を踏み入れれば函館の生活に触れることができて、面白いのになあと、ぼくは彼等を見ていてつくづく思います。ここ函館には、北国にあって函館山山麓という急な斜面に人々の小さな暮らしがあるということを見てとることができる環境が残っています。
小樽にもそのことは言えて、小樽の魅力もこんなところにあります。小樽も北国にしては急な斜面に生活環境がある。昔は、車を使わないからこんなところに暮らしていても、さして不便は感じられなかったのだろう。この斜面の窮屈なところにひしめいて建つ生活環境には心揺すぶられるものがある。それは手入れのされていない観光地のナナカマドの並木道と同じなのだと思う。多くの人は普段とは違う生活環境や雰囲気に触れて感動する。
このような観光客の人方の気持ちを受け手側は受け止めることができない。せめてもの救いに、観光用に植えられたわけではないナナカマドの並木道が人々の心を和ませている。そして、ぼくも、一人の観光客として、みんなに混じってナナカマドの写真を撮るのである。
この、観光客の人方への想いをを理解できない開発が函館ではこれからますます増長されていく。こんな話は聴きたくないという方もいるようなのだが、しかし、みんなが目や口をふさいでばかりいるから、結局答えが出ずにへんてこな開発につながっていくことが多い。特にこのような主要な産業を失い、観光を主な生業にする街、函館などはそのことは顕著だ。
以前大観覧車ができることで、みなさんに御意見をちょうだいしました。しかし、その時の感想はどの人もあまりに控えめだということでした。函館にとって自分は一観光客に過ぎないから……、ということで発言する権利はないけれども……、函館は今のままがいいですと、小さな声でおっしゃられる人が多いのです。そんなことは函館に関してないのです。函館は主要な産業としての、造船、交易、北方漁業などを失って観光が寂れたら、もはや何もないところまで追い込まれているのですね。それがこのまま行くと、観光地として最も大事な雰囲気が失われていくのです。今回は函館発展の中心地だった、十字街がよくありがちな商業施設へと、開発されます。理由は活性化なのです。十字街というと、函館の銀座と呼ばれたところでしたが、今となっては古めかしい雰囲気がよいところです。この古めかしさこそ、函館の魅力であることに現在誰も気付いていないのです。むしろ、この古めかしさを恥じとさえ思っているとわけです。今、活性化だという目先のことだけでぶちこわしてしまえば、二度とこの雰囲気は戻ってきません。熱帯雨林の伐採は植林をすれば戻ってくるけれども、函館のこの独特の雰囲気は植林をしても決して戻ってこない。百年かけてつちかわれてきたこの独特の雰囲気をぶちこわしてしまえば、もうこれで、終わりなのだということに誰も気付かない。
それを、活性化という美声のもとに、開発され、どこにでもある商業施設に生まれ変わるのは時間の問題なのです。
活性化して、商業施設にして、郊外の大型店と価格競争でもしたいのか?と思うと、???が頭を飛び交います。
ヨ-ロッパ特にドイツの観光局が「ロマンチック街道」と呼ぶ地域が南ドイツにあります。ここはヨ-ロッパ中世の自由都市がそのまま経済発展から取り残されて、世界中の人から郷愁を感じる世界として高い評価を受けています。中世における、自由都市というのは言ってみれば、街全部が“市場”と思って下さい。
市場ができて、それが都市へと発展していったわけです。これが西暦1000年〜1400年くらいのことです。この市場が発展して、都市となり、経済発展がよそに移ってからはここに来るとドイツ人は皆、郷愁病にかかると言われる地域になりました。
まさに、この地域と函館は重なります。函館〜小樽こそ北海道のロマンチック街道になれたのに、それを壊そうと言うのだから、つける薬はない。活性化して、目先の利益に飛びつこうとするこの態度はどこから来るのだろうか?もう少し我慢して、北海道のロマンチック街道をつくって人々を郷愁病にしてあげようとは誰も思わないのか?資本主義というのは風船に空気をいれ続ける経済だとぼくの先生は教えてくれましたが、現実的にそうなのだと思うほかありません。
ぼくの友人の山下は“この十字街から銀座通りを昔日の面影にできたらもうかるのに”と言って、函館を去り、神戸で暮らしています。もうかると言うのは、それは皆がこの銀座通りを歩く時に郷愁病にかかって、うかれるからなのでしょうか?ドイツ人はこうも言います、「過去のない街は、思い出のない人と同じだ」と!
函館は過去を捨て、思い出を捨てた人になろうとしています。目先の利益のために何かしなくてはいけないが、やはり、ここで、発想が貧困だった。もう少しよく考えて、郷愁を感じられる地域に残せれば山下のいうようにもっともうかったのに、とぼくも思う。
郷愁病というのは確かにせつない病気だとは思う。しかし、なくてはならないハシカのような病気だとも思う。そして、気持ちのいい経験だ。人は気持ちのいいことを味わいたいためにお金を使うのだと思う。ぼくも、お金を使うとしたら気持のいいことを味わいたいからだ。
「ぼくの写真を見て、きれいだけだね」と、いう人がいる。昔はよく腹がたったが、最近は自分には確信がある。
「気持ちのいい写真を撮る」これがぼくの写真の基本であり、写真哲学の一つだ。
生涯この基本だけはもう変わらない。だが、いずれ出そうとする、本だけは、そうはならないかも知れない。極力そうありたいとは思いながらも、ままならない函館のような現実を目の当たりにしては、ぼくの心は正の方向ばかりに向けられないからだ。もし、そんなことができたらどんなにいいだろうと思うが、函館の十字街の将来を考えた時、ぼくは自分が生きている間、封印を解けない本を出版することになるのだろうか?でも、ここだけでは言えるが、現在の函館の選択はおかしな方向に進み出したことは否めない。もう少し我慢して、ドイツのあり方をじっくり眺めることができる資質を持った人がいてくれたらいいのになあ、と思う。そうすれば、ぼくの子供達の時代、さまよえる彼等の魂を鎮魂できるそんな地域に生まれ変わることができるのになあ。人々の心がつかめない受け手の開発、向こう見ずな出発。このことは長い目で見れば日本人が経なければならない失敗は成功のもとのひとつなのかもしれない。それにしては、この失敗は規模が大きすぎる。とほほほ……、ぼくにはまったく発言力はない。
「気持ちのいいところ」の代表選手として、大雪山を取り上げた。何も、大雪山に行かなくてはならないか?というと、別にそんなことはない。秋の紅葉の時期にそのへんを走るだけでも味わえることは確かで、それでも十分なのだけれども、徐々にグレ-ドアップして、北海道を、北国の気持ちのよさを味わっていってほしいというのがぼくの気持ちです。
少ない休みという制限は誰しも持っていると思うと、なかなか深い話ができないという後ろめたさはあるのですが、できるだけついてきてほしいと思います。ぼくらは風景のプロで、専門でやっています。それでも、今年のように行けなかったりします。だから、他の仕事をされている方がなかなか行けないのはよくわかります。特に、大雪山などは特殊な地域だからなおさらです。でも、その困難さを超えれば、人が必ず味わって損はしない感激感動があるのだということを忘れないでほしい。それがぼくの願いです。
この願いは今年、ぼくの神戸の先輩から連絡を受けた時に一つかないました。この白鳥のキッスを写したところに先輩も時期は違うけれど、行ったよ!という連絡がありました。もし、時期も同じでここで会っていれば「抱き合って喜んだろうね」と、書かれていました。
ぼくの先輩は南の海が好きなのだとばかり思っていましたが、それがどうして……、こんな北国の奥へ!と、感激でした。札幌の大切なお客様で、山を愛されている女性の方がいて、「昔、熊よけにカンカンに石ころをつめて山を歩いたわよ」と依然聴きました。「オ〜!」という声はぼくの感激の声です。以前、写真館通信で紹介した古本屋さんの御主人も山を愛された方で、御婦人の荷物を持ってさしあげて……、とおっしゃられていた。
そうかと思えば、昨日、旭川の友人から電話がかかってきて、上ホロカメットクで遭難しそうになった。ということだ。霧にまかれたというのだ。その日氷点下7度。岩の影で一夜を過ごして無事に生還した。野宿ではならしているが、さすがに2000m級の山の上での野宿はきつかったらしい。眠ったら死ぬ。彼はラジオをかけて時間を過ごしたという。
その日、ちょうど北海道で火球が目撃された夜だった。火球とは巨大な流れ星だ。半月くらいの大きさの流れ星が青白い光を放ちながら飛んだという。友人からぼくのところに火球が飛んだという連絡は入っていた。しかし、ちょうどその時、大雪の稜線で死を決意しながら戦っていた友人が火球を見て、「幻覚か?」とつぶやいていたとは知らなかった。彼には死んでもらうわけにはいかない。彼は目下、木工の修行中だ。木工の技術が身についた時、彼には望遠鏡を造ってもらうという約束がある。そして、どこまで自分達の力で遠くまで見ることができるかに挑戦するつもりなのだ。1億5000万光年は見える。ぼくはそう信じる。北国で育った最高の桜材を使って彼に望遠鏡を製作してもらいたい。高級家具のような仕上がりの望遠鏡だ。望遠鏡の精度は鏡もさることながら木工の技術力にも負っている。人が力をあわせてどこまで遠くが見ることができるか?なんて思っただけでも、なんかヨ-ロッパのルネッサンス期のような感じがして、楽しい。明るくなったとは言え、北海道の空は日本一であることに変わりない。宇宙の深奥に限り無く安く、格調高く迫っていくことはぼくの将来の夢として、かけがえのないものだ。もし実現できたら、ここでこうして話を聴いてくれる方々にも、是非参加してもらいたい。がんばるぞ!オ-!
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