について
1992年以前 の歩み
1986年〜91年まで6年間の歩み。

●1986年 20歳

8月3日) 最愛の祖母を失った日である。

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1987年 21歳

4月)北大に入学。僕は高校を中退している為に、大検による大学入学である。高校を中退後、星と剣道に力を入れた。剣道は、北海道に来てからやれなくなったが、星への情熱はこの期間に醸成された。
 いわゆる浪人時代なのであろうが、人生にはこうした浪人時代が必要である。サラリーマンになるために、会社から言われたままを忠実に守る人間になるのであれば、その必要はないが、せっかく生まれてきた自分の人生にとっては社会が決めた線路から一度離れることはとても有意義な経験をもたらす。
 だから、僕は単に北大に入学したのではなく、自分の絶対の意志、あくなき憧れのもとで北大に入学することを決めた。

7月)タカハシの屈折望遠鏡、FC76を中古で購入。憧れの望遠鏡であった。赤道儀には憧れだったモータードライブが付き、しかも念願だった極軸望遠鏡も付いていた。浪人時代に使っていた望遠鏡には極軸望遠鏡やモータードライブが付いていなかったので、この望遠鏡を手にしたときはなんだか偉くなったような気がした。
 しかし、今もそうだが、この頃は特に星の撮影をやれるほどの技量も資金も僕にはなく、写真撮影にはあまり役立てて上げることはできなかった。
 そして更に。この望遠鏡は函館に来るときの引っ越し代捻出のために売却してしまう。無念であったが、水産学の研究に専念するために「星のことを捨てよう!」という気持ちの整理からの決断でもあった。

10月)カラーネガフィルムだが、風景写真を始めた。
最初は、札幌南部のウトナイ湖へ白鳥の撮影によく通った。その頃、僕が白鳥を撮っていた理由は、自然に対して興味があったからではない。物語に出てくる白鳥の清く美しい世界を表現したいと思っていた。
 しかし、始めた当初、リバーサルフィルムのことを僕は知らず、カラーネガフィルムで写した白鳥の風景写真はひどい仕上がりのものであった。
 だが、リバーサルフィルムを知ってから、ネガとリバーサルフィルムの違は大きく、リバーサルの美しい色合いには心うたれたものである。そういう意味で、カラーネガフィルムがデジタルに変わるのはわかるが、リバーサルフィルムまでデジタルに変える必要はないと僕は思っている。

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●1988年 22歳

10月)北大の水産学部へ移行のために函館に来る。

12月)丹頂鶴の撮影の帰路、クリスマスの夜に友人である札幌の佐々木聡君の家を尋ねると、クリスマスの夜にどうして野郎と過ごさなければならないのか!と叱られつつ、楽しい時を過ごす。

●1989年 23歳

9月)マミヤM645一式11万円で購入。交換レンズとして、セコール55mm、80mm、300mmが付属。函館の老舗のカメラ店のショーケースの片隅にあったカメラだったが、その店の店長から「びた一文まけられん」と言われたことをよく覚えている。この時から写真人生が始まったのだろう!

10月)マミヤM645を持って、初の大雪山の撮影に行くが、マミヤM645は使えず、その頃メインだったニコンF2も電池がなくて、撮影できない状態に。しかし、その頃、僕は大人たちから聞いていた「露出は勘で撮れる!」などといった愚かなことを信じていたので、むこうみずなことに勘で撮影をやった。その結果、厳密に言うと一絞り位暗いフィルムになってしまった。

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●1989年 23歳

12月)水産庁養殖研究所に就職のために見学に行くが、あまりにも殺風景なためにきっぱりやめてしまった。この頃から水産学の研究が自分の求めている全てを満たせないことに気づき始めた。

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●1990年 24歳

4月)北大4年。4月より専門課程の研究室に入る。しかし、もうすでにこの頃になると、水産学への情熱よりももっと広い自然世界への希求心が強まっていた。そんな僕であったので、好きになれない研究室の面々と桜の下に焼き肉を食べに行くことなどにどうしても耐えられなくなっていた。すなわち、桜はその下で宴会をする対象ではなくて、撮影する対象になっていた。
 
だが、もし研究室の面々が気の合う人々であったなら、僕の性格から言って、生真面目に仲良く過ごし、大学を卒業し、風景写真を志すか、そのまま水産学の何らかの分野にとどまっていたのだと思う。
 しかし、幸か不幸か、僕が移籍した研究室は北大水産学部の中でも特異な雰囲気を持った研究室で、クラスの皆からは「可哀想に」と思われたみたいである。そして、その居心地の悪さは極みであり、「居心地の良い環境」を求めて、僕は水産学部を出て、環境科学研究所や教育学部へ転身を計画する。
 しかし、当時、北大環境科学研究所はできたばかりの頃で、先生のいい加減さにぞっとして、すぐにあきらめ、その後は教育学部の博士課程の入試に向けて勉強を開始する。

10月)北大教育学部への転身を図る。その折り、北大教育学部の恩師、杉村、青木両先生にお世話になる。

 その時に、お世話になったのが、北大教育学部の杉村、青木両先生だった。二人の研究室は大変居心地の良いところで、僕は二人の元で働こう!と決心する。福祉書の翻訳である。
 しかし、夜に杉村先生と話していたときに、先生から「男というのは、お父さんお母さんごめんなさい。夢に向かって生きていきます!と言って広い世の中に出ていくものだ!」教えられ、僕は教育学部への進学を捨てイバラの写真家への道を歩み始める決心をつける。
 杉村先生とはその後会っていない。僕は人生至上最高の恩師と思っている。一度お会いしたいと思っている。確か、先生は今、法政大学の教授をされておられるはずである。「貧乏」の研究の第一人者である。

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●1991年 25歳

北大中退。

11月)マミヤRB67一式を購入。

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