写真館通信の世界
★シュバイツアー★
 シュヴァイツアーという名前を聞いて大変懐かしいと感じた人も多いと思います。
今回は、彼のプロフィールを紹介するのではなくて、シュヴァイツアーの書いた文章から一部紹介しようと思いまして、この場をお借りします。
 シュヴァイツアーはぼくにとってかけがえのない先生で、ゲーテの著作と共に疲れた時取り出して読む、不可欠の書物です。どうぞ、一読下さい。(残念ですがほんの一部です)


シュヴァイツアー 著
 文化の頽廃と再建 
文化哲学第一部
               国松孝二訳

 まえがき

ここに初めの二部を公にする。この文化哲学の最初の草案は一九〇〇年に遡る。一九十四年から十七年にわたりアフリカの原始林において、この草案に手が加えられた。校正の労をとってくれたことに対し、家妻と友人カール・ライラーとに感謝したい。
          

                1923年2月
                           アルベルト・シュヴァイツアー

 2 私達の経済生活と精神生活とにおいて文化をさまたげる事情               

近代人の多忙と非集中性

 思考がその役をなさなくなったということが、文化の没落する決定的な事情であるが、これと並んで、更に幾つかの事情が重なりあったために、現代において文化が困難になってくるのである。それらの事情は精神的な領域にも経済的な領域にもあり、経済と精神との相互作用がだんだん思わしくなくなったことに、主として基づいている。近代人の文化能力が低下したのは、近代人が自分のおかれている現実の状況の為に萎縮し、精神的にそこねられているからである。ごく一般的な言い方をすると、文化が発達するということは、全体を目指す理性理想が個々人によって考えられ、個々人のうちにおいて現実と対決し、しかも、最も適切なあり方で現実の状況に影響できるような形をとるということである。だからして、ある人が文化の担い手になる、言い換えれば、文化を把握し文化のために働く能力があるかどうかは、その人が考える人であると同時に、自由な人であるかどうかに関わるわけである。考える人でなければ、理性理想をとらえて形成するようなことは初めからできない。自由な人でなければ、自分の持つ理性理想が一般を目指すようにさせることはできない。
 自分自身がなんらかのあり方で生存競争に捕らえられていればいる程、その人の理性理想には、自分自身の生活条件を改善しようとする傾向だけがあらわになってくる。そうなると、利益理想が文化理想に入り交じってきて、これを濁らせてしまう。
 物質的な自由と精神的な自由とは、緊密に結びついている。文化は自由な人々を前提としているのであって、自由な人々だけが文化を考え、実現できるのである。近代人にあっては、自由も思考能力も低下してしまっている。
 現実の状況がよくなって、わずかな幸いにせよ、持続的な幸いが、次第に広い範囲の人々に恵まれるようになっていたとしたら、それは文化のために、文化の名においてたたえられている一切の物質的成果よりも、はるかに大きな利益をもたらしていたことだろう。なるほど、物質的な成果は人類全体を今までよりは、自然から自由にした。しかし、同時にそれは、独立した人々の数を少なくした。職人の親方は、機械におされて工場労働者になった。近代の複雑な営業網の中では資本の強い企業しか持ちこたえていけないために、次第に勤め人が一本立ちの商人にとってかわるようになった。今まで大なり小なり財産を持ち、多かれ少なかれ独立して仕事をしていけた人々までが、近代の経済組織の中では現にあるものが不安定であるところから、次第に強く生存競争の中に巻きこまれてきた。
 こうして生じた不自由は、職業生活が次第に多くの人々を大きな集団にまとめ、これによって、郷土や我が家や自然から引き離されてしまうためにいよいよ強化されてくる。そのためにもたらされた精神的痛手は大きい。自分の農地や自分の居所を失うと共に、正常でない生活が始まるという奇異な言葉は、真実すぎるほど真実である。
 生活条件をみんな同じように脅かされたために、これを守ろうとして団結した大勢の人々の利益理想は、彼等が自分達の物質的状態を、それと共に精神状態をも改善しようと努力する点で、確かに文化的要求を含んでいる。けれどもそうした利益理想は最も一般的な一般利益をまるで考慮しないようなかたちをとってあらわれるから、文化そのものの考えに危険をおよぼす恐れがある。つまり、互いに矛盾した利益理想が文化の名において互いに相戦うことになるので、文化そのものの考察がなおざりにされてしまうのである。
 不自由の次に過労がある。三、四世代以来非常に多くの人々だけがもはや働く人としてだけ生きていて、人間としては生きていない。労働の精神的道徳的意義について一般に言われていることは、彼等にもはやあてはまらないのである。近代人は、どんな社会圏にあっても、通例多忙すぎる結果その精神面が萎縮してきている。間接的には、すでに子供のときにその被害を受ける。両親が激しい勤労生活にかまけて、ちゃんと子供の面倒をみてやれない為に、子供の精神的発達にとってかけがいのないものが欠けてしまうのである。後になると、自分自身が多忙の身になるので、だんだん外面的な慰みを要求してくる。自分自身に思いをひそめたり、真剣になって人間や書物と取り組んだりして、余暇を過ごすためには精神の集中が必要であって、これが近代人には容易ではないのである。全然何もしないでいること、自分自身から目をそらすこと、忘れること、これが近代人にとっての生理的欲求である。近代人は考えない人としてふるまおうとする。教養を求めず、娯楽を求める。しかも、あまり頭を使わずに済むような娯楽を求める。
 精神の集中していない、または集中する能力のない、こうした多くの人々の心理状態は、逆に教養のためをはかり、それと共に文化のためをはかるべき機関に、影響を及ぼす。劇場は娯楽場や見せ物小屋のために押し退けられ、まともな書物は雑本のために駆逐される。雑誌や新聞は、だんだん事態に順応して、全ての記事をごく分かりやすい形でしか読者に提供しなくなってくる。現在のごく普通の日刊新聞を五、六十年前の日刊新聞と比較してみたならば、この意味で日刊新聞がどれほど変わったかがわかるだろう。
 精神生活の支えとなるべき文化機関はいったん希薄な精神に満たされると、社会のためにこうした状態に追い込まれたのに、今度は逆にその社会に影響して、社会をして精神を失わせる。
 近代人の無思想性がどれほど第二の天性になっているかは、その社交の中にうかがわれる。彼等は知り合いと話をする時、世間話ばかりをして、話が本物の思想の交換にならないように気を配るのである。彼等は何一つ自分のものを持たず、自分のものを求められはしないかと、一種の不安に支配されている。
 精神の集中していない人々の社会が生み出した精神は、私達の中に入り込んで、絶えまなく大きな力になりつつある。私達の間には、人間についての低い考えが出来上がり、他人にも自分にも、私達はもはや働く人としての能力だけしか求めず、その能力がありさえしたら、それ以上はまず、何の能力がなくても満足する。
 不自由と非集中性という点から見ると、大都会の生活条件が、最も不利な状態にある。従って、彼等が一番精神的に脅かされているわけである。かつては大都会は精神的人格として頼もしい人間という理想を育てる場所、という意味で文化の中心であった。ところが、こんにちでは、大都会と大都会人とがつくりなす精神から、本当の文化を救いとらなければならない、というのが実状である。

 紙面の都合で彼の著作の紹介はここで終わりですが、残りの部分でシュヴァイツアーについて軽く触れておきます。
 シュヴァイツアーは1875年(明治八)ドイツに牧師の子として生まれます。音楽的な才能のあった彼はパイプオルガンの巨匠ヴィドールの弟子となり、本格的に音楽を学び、音楽家として将来は固く約束されていた。しかし、バッハの偉大さを知れば知るほど、演奏家としてはできても、自分には音楽の創造的才能が欠けていることを強く感じていたことと、「人は自分のために自分の生命を保持すべきではない」というイエスの言葉を深く理解し、「私は、三十歳までは学問と芸術のために生きよう。それからは、直接、人類に奉仕する道を進もう」と、決意し、地位を捨てて三十歳からまた学生となって、医学の勉強に没頭した。医科の課程を終了してからは、更に熱帯医学を勉強し、一九一三年三十八歳の時妻と共に、アフリカに医師として旅立った。こうして、アフリカで医療活動をなんと五十年にわたり続け、一九六五年九月四日、アフリカで九十歳の一生を閉じたのである。
 こんなシュヴァイツアーの生き方や文章はぼくにとっても学生時代からのバイブルみたいなものでした。彼の文章を読んでいると耳の痛いことが所々出てくるので、その度に襟をただす繰り返しです。そして、なんだか元気が湧いてくるんですね。もっと人間らしく崇高に生きねばならない!とも思うわけです。