写真館通信の世界
川について
川についてと大きく振りかぶったのですが、なかなか難しいテーマで、
ぼくの手におえるようなものではないかもしれませんが、説明していきます。
しかし、昔あまり興味がなかった川なのに、最近、川が好きでしょうがありません。
どうしてでしょうか?
川に関する本を読んでいると、
昔川で遊んだ豊かな経験をお持ちの方が多く
子供時代に培ったそのような体にしみこんだ経験は何にも代え難いなあと痛感します。
残念ながら、ぼくは川で遊んだ経験が無く、
むしろ、ぼくの育った神戸には川は無いと思っていました。
この感覚は函館で育った慶ちゃんとも共通していて、
彼女も函館市内を流れる川を見て、あれは川ではなくて水路だと思っていたと言います。
そして今なおぼくの母親などは神戸市を流れる水路を川だと主張します。
人の歴史を振り返って、大きな川のあるところに文明が栄えてきました。
神戸にも幾本か川が流れていて、その川のおかげで発達したわけですが、
いざ発達してみると、今度は土砂を運んできて港を埋めるから、
今度はいかにして川の命を止めるかに執着します。
いかに完ぺきに川の息の根を止められるか否かで、
大阪と経済競争に勝つか負けるかが決まったと言います。
神戸は当時大阪にその点では勝るわけですが、川を殺して山を削って港を埋めて、
といった経済発展のためにいわば自虐的とも思える行為に突き進んでいきます。
神戸などは、生き物の原点である水や空気を悪魔に売り渡し、
その代わりにわずかなはかない繁栄を手に入れたのかもしれません。
森、川、海、空を持たない都市が将来いったいどうなるのか
子供でも分かろうというものです。
 
函館でも最近まで、これとは違った形で、川を殺そうとしていました。
函館には大きく見ると3本の川があります。
亀田川、松倉川、汐泊川です。
函館の水道の水は主にこの3本の川から取水されています。
しかし、これだけだと、渇水期に水不足が生じるから、
松倉川に新たにダムを造ろうというのです。(亀田川にはダムがすでにあります)
ここで、勘違いしてはいけないのは、ダムに降った雨を水道水に使っているのではないことです。
あくまでぼくたちが飲んでいる水道水というのは、
山や森に降った雨なのです。
その雨が樹木や地層にしみこんで、
ただの雨ではなく、うまい水に変わって川に入り、水道水になります。
ダムがあるからうまい水が飲めるのではなく、山や森があるからうまい水が飲めるのです。
あくまで、ダムは渇水期に備えて水を一時的に溜めておく施設に過ぎません。
だから、普段は全然必要のないもので、ただ渇水期にのみ役に立つかもしれない存在です。
しかし、渇水期という川に水が無くなる時期ができるようになったのは、
森に樹木が無くなってきたからで、森の広葉樹の伐採やゴルフ場建設や牧場化が原因です。
つまり、森の広葉樹をむやみに切らずゴルフ場や牧場を造らなければ、
川は渇水になることはなく、ダムがいらないわけです。
 だから、みなさん!ぼくたちの飲み水は川と森の樹木と大地からの贈り物です。
決してダムからの贈り物ではありません。
そればかりかダムはぼくたちから生活と夢を奪う存在です。
ダムはムダと最近よくいわれますが、まだまだ控えめな表現なのです。

砂防ダムについて

ぼくは川を殺す筆頭がこの砂防ダムだと思います。
下のページの写真を見てください。
まるで巨大な滝です。本当に恐い存在です。
砂防ダムを造る目的は土砂災害や山地荒廃の防止にあります。
ここで土石流を受け止めて、災害を減らそうというのです。
しかし、川は普段から山を削っては運び削っては運びしていますので、
すぐに砂防ダムの中は土砂で一杯になり、
そして土砂の上にに木が生えて地盤が安定化するとされますが、
最近の研究ではこれがむしろ災害を加速させると言われています。

それに加え、砂防ダムができたという安心感が恐いとも言います。
砂防ダムができたから、その流域下の住民が安心しきってしまって、
災害にあうことが増えているそうです。
絶え間ない川の流れは一刻も休むことなく川であり続けようとします。
そのような自然なあまりに自然なあり方の前に、人間の瞬間的な対処がかなうわけがない。
ダムを造ってしまったら、人はもう誰も川を注視する人がいなくなる。
川はそうなっても流れ続け、削り続け運び続けている。
永遠に、川は川であり続けようとする。自然とはそういうものだと最近思うわけです。

さて、この砂防ダムがもたらす悪影響は何より、ダムより下流の河岸を破壊します。
そして、魚たちに決定的なダメージをくらわせます。
どうして?と思うかもしれません。
しかし、北海道に来てみるとわかるのですが、
川にすむ魚たちのほとんどは海へ下りたりまた川を遡ったりする生活を送っています。
本州の感覚では川魚は川にいるもので、川の中だけで生活している、と思いがちです。
ところが北海道などでは川と海とを行き来する魚の方が多くなります。
その時、この砂防ダムがあると、魚はダムを越えることができないので、
魚たちは生活できなくなって死んでしまいます。
例えば、サケやカラフトマスは数B、アユなどは1B足らずのものが川を下り、海に旅立っていきます。
そんなに小さい子供たちにとってこの巨大なダムの存在は死を意味するのです。
サケやマスの成魚が遡上する以上に、
砂防ダムは魚の子供たちを死に追いやってしまう悪魔的な存在なのです。
こうして、ダムから上には魚がいなくなってしまうわけです。
以前、禁漁河川と大きくうたっている川に行ったことがありました。
すると河畔に「この川は禁漁河川ですから魚を捕ってはいけません」
という看板が立っていました。
しかし、その看板の背後には大きな砂防ダムがそびえ立っています。
「魚は捕ってはいけませんが。殺すのはかまいません」と書き換えた方がいいようです。
 アメリカなどでは砂防ダムで魚が死んでしまうという理由から、
砂防ダムを壊しにかかっています。
    日本でも一日でも早く、公共事業のためだけに魚を殺すことが無くなる時が来て欲しいですね。        

三面張り水路と合成洗剤

前回の写真館通信で紹介しました丘のうえの小さな写真館の排水のことですが、
U字管というコンクリートの管に直接流すのではなくて、
その管に土や落ち葉を十mくらい敷き詰めていることをお話ししました。
石鹸を使った排水なら十mも土の中を流れたらとってもきれいになるわけです。
しかもみみずも養殖できる。すばらしいことだと思いませんか?
このことが川についても言えます。
まず、都市を流れる川のほとんどは左右底面をコンクリートで固めたいわゆる三面張り、
つまり、大きなどぶ状態になっています。
この川に各家庭から合成洗剤が一杯の家庭排水が流れ込みます。
合成洗剤というのは、ママレモンやファミリーといった食器洗いの洗剤、
アタック、ザブ、アリエールといった洗濯用の合成洗剤、
また、頭髪用の自然物語などの合成シャンプーなどです。
つまり人が食事をして、服を着て、お風呂には入ると、川は汚染されてしまいます。
大学時代ぼくの友人に食器を水だけで洗っていた人がいましたが、
彼は川のことを考えていたのだろうか?それとも、人体へのママレモンの残留の恐怖からだったのだろうか?
よくわからないけれど、ぼくなどは大学時代、
3カ月に一度しか洗い物をしないから、かなり川の環境にやさしかったみたいです。
みんながぼくのようにルーズだったら川は汚れないし水もそんなに必要がない。
また、もう一人、いったい人はどれほど風呂に入らず生きていけるのか?
という実験をしていた友人がいた。
2週間目くらいからは、髪を後ろで結って侍のような格好で生活をしていたことを覚えています。
彼は二枚目だったから、女の子にはめっぽう人気があったが、
彼の見た目から入っていった女の子はびっくりしたことだろう。

話しをもとに戻して、合成洗剤はどうしていけないかというと、
合成洗剤は自然界でなかなか分解されない。
ひどくなれば川にいる生き物を皆殺しにしてしまい、
それこそ、完壁な死の世界をつくりあげてしまう。
この合成洗剤の恐怖に拍車をかけているのが、三面張りの水路化と、貯水ダムと砂防ダムなのです。
三面張りにして、底をコンクリートにすると、洗剤などを分解してくれる生き物が棲めないし、
上流に砂防ダムを造ると、土砂の運搬が途絶え、堆積なき削砕が進みます。
いつまでたっても洗剤を分解してくれる生物が棲めず、
その上に水源としてのダムを造ると流れてくる川の水も減って、
汚い排水を薄めてやることもできません。
この結果、川はきれいになろうとする本領を発揮できぬまま死んでいきます。

そこでじゃあ家庭排水を川に流すのはやめましょう!
ということになるわけですが、
その先にある結論が下水道を造りましょうという話しになってしまいます。
これがまたくせものなわけですが、詳しい下水道の話はこの次にして、
結論だけ言うと下水道はお金ばっかりかかって、効果がないわけです。
下水道以上にもっといい方法があるのに、
国は雇用対策、不景気対策のために下水道という地下の見えない道を造り続けているのです。
下水道のことになるとふつふつと煮えくり返っている思いがあるから、
書きたい。


健全な川について

今回お送りしたポストカード作品に見られるような川が健全な生きた川ということになりますが、それでは具体的にどんな川が健全な川の姿なのでしょうか? 

@流れが曲がっているかどうか。

 日本の川の改修工事では、河川の氾濫を無くす目的で川幅を拡張し、一刻も早く水を流してしまうために、まっすぐにしてしまいます。ところがそうすると逆に氾濫が増え、おまけに魚たちは棲み家を失い、氾濫時にも隠れ家がなくなり、流されて死んでしまいます。

A河畔林があるかどうか。

このことは意外と重要なことなのです。まず、河畔林があるとその木の葉に虫がつきますが、これが魚たちの餌になります。また、魚の棲息には木がつくる木陰が非常に重要な役割を果たしています。また、落ち葉は水棲昆虫たちの大切な餌になっています。なかでも、ヤナギやハンノキ、カエデなどの葉は柔らかくてとてもうまいのだそうです。意外にブナやミズナラなどの木の葉は固くてうまくないそうです。もし、河畔の修景を考えるならカエデなんか虫にも人にもいいなあと個人的には思います。

B水の流れが豊富か 

流域の森に広葉樹がなくなると、雨水を貯めることができないので、雨後すぐに大水になって流れてしまい、普段の川に水がなくなってしまいます。

C雨後に水が濁らないか? 

もし、その川の上流の森が荒廃していたら、一雨降ると、斜面の土砂が川に流れ込み、アッというまに水量が増え、茶色に濁ってしまいます。もし、森と川が健全なら、水量もあまり増えず、茶色に濁ることもありません。

D湧き水があるか?  

特に川底をコンクリートで固めてしまうと、湧き水が途絶えたり、玉砂利が無いために魚が卵を産むことができません。

E子供たちは遊んでいるか? 

見過ごされがちなことだけど、意外と大事なことだと思います。
ある本の中で川の絶滅危惧種の筆頭は「子供」という種だと書いてあります。
ぼくもその通りだと思います。いつの頃からか川や海は危ないところ、
遊んではいけないところになってしまいました。
子供たちから遊ぶところを奪っておきながらテレビゲームはしてはいけませんなんて口が裂けても言えない。
おまけに生まれた土地のすぐ側に禁漁河川があったりすると、
子供たちは何がなんでも川に近づけないように法律が規制してしまいます。
禁漁河川は節操のない大人に対しての法律なのに、これが無意識に子供たちを苦しめています。

F川と海を魚たちが行き来しているか

このことはぼくたちの夢の領域に属する。
大学の頃、アラスカ大学から帰ってきた先生から見せてもらった写真の中に、
大学構内を流れる川の中で、紅葉に送られながら寄り添い死んでいるサケの姿がありました。
この一枚の写真によくわからないながらも感動しました。
しかし、現実に自分たちの大学の環境を見てみると、北大の構内の川や湧き水は涸れ、
横を流れる川はどぶのようになっています。
かつて、北大のあるあたりで、サケたちは産卵していたらしい。
豊平川の伏流水がサケたちの命を保証してくれていました。
ちょうどその頃ぼくは千歳川でサケの遡上時の実習をしていました。
蓄養したサケの頭をこん棒で殴るのもぼくたちの仕事でした。
大学を出てからは函館郊外の川で、サケの遡上を撮影したりしていますが、
サケのほとんどが、川の入り口のところで捕獲されてしまいます。
子孫を残すために命を懸けて帰ってきたその瞬間にサケは厳しい管理下に置かれて、
そろばんの上をすべらされる。
一匹たりともサケらしく、産卵し、死んでいくことは許されていません。
また、うまく大水などで逃げ果せたとしても、川の途中には巨大な砂防ダムがあったり、
コンクリートづくしの川があって、自然産卵の快感にひたれるサケのカップルは極めて少ないのです。
 
でも、もし、サケが函館ならその中心にあたる亀田川を遡上し、
自然産卵ができるような環境を整えることができるような時が来たら、
その時は我々は拍手喝采しなくてはいけない。
それは我々の勝利を意味するからであり、自然の中からはみ出た存在から、
少しでも自然の中に戻った証になるに違いないからです。
しかし、このことはできそうでできない壁に数多くぶつかるだろう。
例えば合成洗剤。誰一人合成洗剤を使わず、
石鹸かぬるま湯で食器や体を洗うようになる日が来るのでしょうか?
合成洗剤のメーカーの目に見えない圧力もかかるでしょう。
でも、夢ではなく本当にサケがのぼるような日が来たなら、
その時、ぼくは皆さん全員に丘のうえの小さな写真館で造った祝杯の果実酒を贈りましょう。
そして、この勝利を前に一気に祝杯をあげようではないか!
必ずや正義が勝利するその日を信じてがんばりましょう。

もはや川とは呼べない、3面張りの水路と化したもと川!