写真館通信の世界
ニリンソウ咲く道
-写真にできない風景-
森の中の小道。

その両脇には、びっしりとニリンソウが咲いていて、
目で見るぶんにはとってもかわいい。
しかし写真ではその雰囲気がうまく伝えられない。

 ぼくはどうして写真を撮っているのだろうか?
普段は深く考えたりはしないけれども、
その出発点は多くの人と感動を共有したいというところから来ていると思う。
 最初は世界中のいろんなところを旅して、
そこで発見したいろんな風景をそこに行けない多くの人に紹介できたらいいなあ
という想いが心の中をしめていました。
 こうして、始めた風景写真。
ですが、最初はひとりで写しに行っていました。
するとどこかむなしいわけです。
わあきれいだ!と思っても誰にもそのことが言えないわけです。
 そして、当時、富良野の丘のうえに一本の木があったんですが、
真夏にその木の下にいるととあれほど暑かったのがうそのように涼しくって、
ひんやりした風が丘のうえの木がつくる木陰を通り過ぎていったんです。
あのときほど気持ちいいなあと思ったことってそれまでの人生の中でなかったんです。
 この気持ちよさをどうしたらつたえていけるだろう!って真剣に悩みます。
しかも、その頃だとまだその場の気持ちの良さを写せる力もなかったし、
その気持ちのいい雰囲気を写すのが自分の写真だという意識もなかったわけです。
 
この気持ちのいい雰囲気を写したい
と思うようになるまでまだだいぶ時間がかかるんです。
その頃まで、まだ自分の狭い心の中にある風景にしがみついていたんだと思います。
 つまり、最初は主観的なものの見方ばかりしてたんですが、
自分の心の狭さというか限界がわかってくると、
徐々に現実の広さから教えられていくようになります。
 そうしていると、ずいぶん気が軽くなりました。
それまではいつも試験前に一夜ずけで暗記したことを忘れないようにしなくてはならない
という苦しさがあったんですが、答えを心の中から開放して、
世界の中に答えを求めるようになると、限界がなくなってしまったんです。
むしろ泉のように湧いて出てくるようになったわけです。

さて、本題ですが、今言ってきました「現実世界の中にある答え」の中で、
一番の難問がやはりその場の雰囲気、気持ちがいいとか、寂しいとか、
そんな人間が風景の中にいるとき感じる感覚を伝えることの大事さと、
もう一つは“写真的表現の限界”です。
 
 写真を見て欲しいですが、これはカラーで見ても地味な写真ですね。
しかし、これを撮影した場所の雰囲気はぼくの理想に近いところだったわけです。
森の奥に入っていくと小さな橋が川にかかっている。
その橋を越えて、下を見ると小さな小径が続いていて、
その道の両脇には可憐なニリンソウが無数に咲いている。
そして不気味な疎林の向こうには小川が気持ちよさそうに流れている。
これを何とか伝えたいわけです。
 
 しかし、写真で写すにはニリンソウは小さすぎるし、
だからといって花だけアップで撮ってもうまく伝わらない。
こういう写真表現の限界に挑んで、レンズを換え、場所を変え何枚も撮るんですが、やはりうまくいかない。
こういった表現したくても地味すぎてできない作品がたくさんあるわけです。
 写真の限界を感じるときなんです。