館 最新単品ポストカードの世界
2011年最新 五稜郭42単品ポストカード
1枚…100円(税込)
五稜郭について
      
                                    写真家 山下正樹
 

これが運命なのか、僕は函館の地で生きる写真家になりました。
そして幸運にも五稜郭の撮影をする機会を与えられ、
こうして五稜郭のポストカードを発行させていただき、
全国の方々に五稜郭の四季をお届けできることは何よりも嬉しいことです。
本当にありがとうございます。
 これを機に、五稜郭について簡単にお話しさせていただきたいと思いますので、
どうぞお時間のありますときにでも一読下さいませ。


■五稜郭はどうして函館にあるのか
 
五稜郭は今から約140年前、1864年に30才の青年であった、
武田斐三郎(たけだあやさぶろう)によって築城された城郭で、
彼がオランダの築城技術を学び、周囲に死角がなく、
攻撃目標となる天守閣のような高い建造物を持たない、
地に張り付いたような星形の城郭として築城されたことが大きな特徴です。
つまり、姫路城や大阪城のような高い天守閣を持った従来の日本の城造りではなく、
五稜郭は西欧の技術をとり入れ、
時代の流れを読んだ最新の思想によって造られた城郭であったと言えます。
 さて、どうして江戸幕府が函館にこうした洋式城郭である五稜郭を築城したのでしょうか?
それは、迫り来るロシアからの北辺の国防のためであり、
またペリー来航以来の国防のためでした。
 しかし幸運にも五稜郭は一度も国防という本来の目的に使われませんでしたが、
残念なことに日本最後の内乱の舞台になってしまいます。


■蝦夷共和国の建国
 
時は幕末、薩摩・長州の連合軍(新政府軍)はついに江戸幕府を倒します。
しかしそうした幕府崩壊に対し、あくまで江戸幕府の存続を願って、
幕府の軍艦奉行であった榎本武揚(えのもとたけあき)は1868年8月19日、幕府を脱走し、
開陽丸を旗艦とした榎本艦隊を率いて、新しい国を造るために北海道箱館の地にむかって出航します。
(榎本武揚…22才まで榎本釜次郎、兄は鍋太郎)
こうして榎本は明治新政府の正立を認めながらも、
これと対立する蝦夷国家の建設を進め、徳川家臣団の王国を造ろうとし、
五稜郭を拠点に「蝦夷共和国」の建設に向かうのです。
そしてついに榎本は榎本艦隊を北海道噴火湾 鷲の木の地に上陸させます。
そして箱館府を追放し、五稜郭に入場、ここに蝦夷共和国の建国を宣言します。
つまり、一時的にしろこの日本に薩長の明治新政府と榎本の蝦夷共和国という
二つの国家が併存することになります。
 しかし、榎本が蝦夷共和国を建てると、松前藩がそれに抵抗し、
榎本軍の前に立ちはだかります。結果的に、榎本は松前藩を滅ぼすことになるのですが、
その戦いの途上ちょっとした気のゆるみから、旗艦 開陽丸を江差沖で失います。
こうして松前藩との戦いには勝つのですが、
旗艦開陽丸を失ったことは榎本軍を窮地に追い込んでいくことになります。


■箱館戦争
 
 榎本が五稜郭に入場し、蝦夷共和国を造ってからわずか5カ月後、
新政府軍は、甲鉄艦という強力な軍艦を率いて榎本軍に攻撃をしかけてきます。 
しかし、開陽丸など迎え撃つ軍艦を持たない榎本軍は、簡単に新政府軍の上陸を許し、
結果、新政府軍に降伏してしまいます。こうしてわずか5カ月で蝦夷共和国は滅ぶわけです。
この戦いのことを箱館戦争と呼ぶわけですが、
この戦争をもって完全に江戸幕府の勢力は駆逐されたこととなり、
新政府による明治という新しい時代の幕開けとなっていきます。


■現在の五稜郭
 
こうしてロシアの北辺防備のために造られた五稜郭でしたが、
結果的に江戸幕府崩壊の最後の決戦の場になりました。
つまり日本人同士の内乱の最後の舞台になったわけですが、
しかしそれは無血の潔い戦いであったわけで、
そのことを思うと五稜郭の清浄さに誇りを感じるわけです。 
そして今では春には桜が城郭を彩り、続いて新緑、ツツジ、藤…が咲き、
更に冬には市民の手で星形に電飾され、寒い冬を暖かく包み込みます。
 そう、現在五稜郭はまさに花と星の城郭であり、
平和と静寂の聖域になっていると言っても過言ではありません。
 こうした、平和に包まれた五稜郭の四季を撮影したのがこのポストカードでありますが、
その歴史背景には悲しい戦争の悲劇があったことを忘れるわけにはいきません。
だから我々の責務として、二度と戦争を起こさないように、
戦争の辛い思い出を胸の片隅に置きながら、平和の有り難さをかみしめていたいですね。