の世界
42 きのこの家族 199910
きのこの家族

-北海道 大沼-

 このキノコは近くのブナの森の中で撮影したものです。
ブナの森は北海道ではこの道南地方が北限にあたり,ブナは北北海道に自生していないのです。そのため,丘のうえの小さな写真館のカレンダ−10月のようなオレンジ色した紅葉は南北海道のもので,これより北に行くと森は徐々にその様相を変えていきます。
 特に木々の葉が色ずく秋になるとその違いがよく見えてきます。北海道の森は南から北にかけて美しいグラデ−ションを描いています。このことは函館から札幌に至る中山峠にさしかかるとよく分かります。中山峠では樹齢がもうわからないような原生のエゾマツが無数に存在していて,ぱっと見ただけでもなにか違ってきたぞくらいの気持ちがしてきます。

 
 さて,キノコを語るときやはり真っ先に思うことは彼らは森の分解者であるということですね。あんなに小さいのにしっかり森の物質の循環に一役買っているのです。それからもう一つはその色彩です。例えば植林されたトドマツの森などに入っていくと,そこはぼくの目には物音ひとつしない死の世界に映ります。生命の気配が全くしないし,いつも薄暗く,色彩もまるでないのですから。ところが,そのトドマツの森の中を注意深く覗いてみると,点々とキノコたちが息吹いているのです。そしてその色彩の豊かさは異彩を放っています。そしてとんでもないくらい大きなものがあったり,びっくりするくらい不気味なものがあったりします。北欧やドイツなどには「タンネの森」という黒々したモミの木の森がどこまでもつづいている世界があるそうです。ぼくはそのタンネの森になぜか魅かれています。Die Tanne(ドイツ語でモミの木)その名前を聞いただけでもいいなあ〜とどきどきします。トドマツの森ときっと似ているんじゃないかな,きっと死の世界のような不気味な世界がそこにはあるんじゃないのかと想像を膨らまします。いつか行きたいです。不気味なとこに行きたいって変ですか?

 
 次は循環についてですが,この森の循環って調べてみるとすごく見事なんですよ。いつかこの森の循環をわかりやすく説明した写真集をつくってみたいですね。あんまり見事なもので驚いてしまいます。この「循環」ということ………考えるととっても深い言葉ですね。季節的にいうとサケ(鮭)もこの循環の一員です。今,北海道の川では生まれた川にサケが帰ってきています。川で生まれ,北太平洋で育ち,そして再び生まれた川に帰ってきます。そして産卵を終えると寄り添うように死に,森の生き物たちのお腹を潤すのです。少し話を森から宇宙に大きくしてみますと,彗星も宇宙の物質循環に大きな影響を及ぼしていると言われています。なぜなら彗星は氷でできているのです。彗星独特のしっぽは体の氷が太陽に熱せられて溶けだしたものが宇宙空間に長く伸びたものなのです。彗星は宇宙空間で主に水を運搬していると考えられます。少し寂しい言い方をすればサケは森にタンパク質を運んできます。森のきのこ,サケ宇宙の彗星………小さなものたちがこの世界にあって,なんと大切な働きをしていることでしょうか。こうして見てきますと,この世界の原理は「循環」することなんじゃないのか?とさえ思えてくるのです。回転するとでも言えるのでしょうが,この地球も月も木星も土星も銀河系もみんな循環し,回転しているように思えるのです。その回転運動の結果季節が生まれ人の心が生まれてくる……。秋が深まってきて,山肌がワインレッドに染まっています。ああ,季節が巡って行きます。時間が過ぎていきます。この心の中のやるせない感傷は何なのでしょうか。心までもが宙を舞い,この世界の中をあてどなくさまよい循環していきます。


■「結果を目標にすべきではなく, ただ心の必然性から活動しなければならい」

 この言葉はぼくが敬愛するシュバイツア−の御本の中の言葉です。なぜ今ここにこんな言葉を引用したかと言いますと,先月ぼくが望遠鏡を買ったお話をしましたが,ぼくが父に望遠鏡を使って月を撮影し,ポストカ−ドにしたいと話したところ,そんなもの売れるのかと言います。
 「そんなもの売れるのか」という言葉はぼくから力を奪います。確かに月をポストカ−ドにしてもそんなに売れないことは最初から分かってはいるのです。しかし,そんな売れるかどうかばかり考えていると何にもできなくなってしまいます。
 心がそうしたいと望むところを素直に突き進んで行くしかないのではないかと思います。
仕事の付き合いで疲れていたときでしたから,たまたま開いたシュバイツア−先生の御本には救われました。「心の必然性」=心になくてはならないもの,心が素直に欲する世界を探求していくことが大切だと思います。売れるかどうかといった外部から答えが出る結果ではなく「自分の心がこれでいいんだ」と確信する世界や作品をつくることが大切なのだとあらためて思ったのでした。

 この数カ月,ぼくは望遠鏡のシステムの展開を構築するのに費やしています。お金がありませんからそれを何とか工夫して乗り切っていかなければならないのです。まずは望遠鏡の三脚の強化からそのことは始まりました………。

 とにかく数え切れないほどの工夫を凝らしました。しかしほんの些細なことで行き詰まることばかりです。ぼくが欲するものがネジ一本にいたるまで函館にはないから大変です。変な話し,今回買った望遠鏡ですら,函館では最大の望遠鏡になるのでしょう。笑っちゃいますね。この貧しいぼくが……。

 でも,予期していないのに「棚から牡丹餅」的なことがありました。この望遠鏡のシステムと並行して,雪の結晶の撮影システムを創ろうとしていたんですが,この雪の結晶のための撮影システムがそのまま月や惑星の拡大撮影のシステムに使えるということに気づいたのです。
 しかもこれは理論的に最高の光学系になるはずなのです。さらに雪の結晶を写すためにぼくは思い切ってニコンではなくオリンパスのシステムに決めました。一から始めなくてはならなかったのですが,これでよかったと思っています。というよりオリンパス以外で雪の結晶と月の撮影はできないと確信したのです。カメラはオリンパスの20年前のカメラにしました。実に良くできています。

 
 とにかく苦心惨憺しておりますが先のシュバイツア−先生の言葉を胸に抱いて負けないでやっていきたいと思います。これらのシステムで1ミリのものから200万光年かなたの世界まで撮影することが可能です。今ではまったく見る影もありませんが,かのオリンパス光学がかかげた目標はミクロからマクロへ,つまり1ミリの万分の1の世界から宇宙のかなたまで撮影できるようにということでした。ぼくもこのオリンパスのこの考え方に共感します。光学顕微鏡の世界では今でもオリンパスは優秀なものをつくっています。大学時代ぼくは1ミリ以下,マイクログラム以下の世界に接していましたからオリンパスの顕微鏡のお世話になっていました。大学時代のぼくの夢は美しい顕微鏡写真の卒論を仕上げることでした。しかし当時,これらは未完に終わったままなのでいつか仕上げないと気がすみません。植物学の先生に一人,写真家を目指して挫折したけれども,見事な顕微鏡写真を撮影する方がいます。彼は偏屈で頑固一徹でその名を知られる高橋教授をうならしたほどの写真を撮影していたのです。ぼくもいつかそんな写真を撮りたいものだとつくづく思います。心の必然性に従って生きていきたいと思います。いつ死んでも後悔しない生き方をするしかないのでしょうね。

■ぼくたちにも子供が生まれました。

 先日,10月6日ぼくと慶ちゃんの間に子供が生まれました。男の子で名前は有情(うじょう)としました。
山下有情です。そういうわけで慶ちゃんは子育てと身体の静養で実家に帰っているわけなのです。

 しかし,子供の誕生を巡って色々なことがありました。まず,ショックだったのが看護婦さんの発言でした。慶ちゃんに向かって「あなたこれからは子供のために人生を捨てる覚悟じゃないとダメよ」と言うのです。「子供のために人生を捨てる」というのはどう考えても間違っている。しかも30代の女性に向かっての発言としては許しがたいものがあった。

30代の女性といえば,花で言えば花盛り。最も美しく咲く花に向かって早く枯れて種をつくれと言っているようなものだ。これはあまりにひどい。しかも人はこれからより良く人生を生きて,子供たちの模範となりて人生を教えるものだろう。それが人生を捨てた者にどうして子供に教えていけるというのであろうか。それでなくても子供に教えるだけの豊かな人生もないというのに……。

 子育てというのは確かにたいへんなことだ。やってみればそのくらいのことは分かる。しかし,この広い世界で生きていくうちにはもっとたいへんなことがある。トンネルにはいったままじっと我慢して矛盾をこつこつひとつひとつ解決していく根気が必要なのだとぼくは常にそう思っている。ぼくの20代は矛盾を解決していくことに費やされた。「子供ができてこれからは慶ちゃんに撮影のお手伝いをしてもらえないね」と身近な者に言われた。
確かにこの世でこのぼくの複雑怪奇な撮影システムを理解しているただ一人の女性だと思う。

 
 猛烈に忙しいときにはレンズを手渡ししてもらうことがある。しかし,身近な者はそうやって忙しい撮影を手伝ってこなしていくことを仕事だと考えているようで,身近な者はぼくたちが二人で撮影をしている意味を本当に理解していない。撮影を通してする仕事の本当の大きな意味は二人で共に感じることなのだとぼくたちは考えている。この大きな世界を二人で共に感じ考えていけてこそ二人で生きる意味がある。だから,ぼくは子供に対しこれから人並みないい暮らしは与えていく自信はないが,その代わり,ぼくはぼくたちの人生そのものを偽ることなく彼に見せていきたいと思っている。その意味では彼にとってぼくは彼の親ではない。人生と格闘する一人の人間である。しかし,もし,理想を語ることが許されるなら,ぼくが本当に望む世界でかせいできたお金で彼を大きくしたい。今はそんな理想からはほど遠いところにいる。今日,美しい夕焼けの空を一人撮影しながら考えていた。この夕焼けの美しさを一人でも多くの人に気に入ってもらって,有情君のパンにできたとしたらぼくは初めて彼の親になれる資格があるのだろう。慶ちゃんが有情君にミルクを飲ませているそばで,今ぼくはお金にならない宇宙の撮影と雪の結晶の撮影システムの構築に頭を悩ましている。世間からしたらばかげているのだろうが,これがぼく流の子育てだと思っている。純粋とはなにか,これからは3人で考えていければいいですね。

追伸:
先日,NHKのラジオ深夜便で,尊敬する天体写真家の藤井旭(ふじいあきら)さんが4夜にわたってお話をしていた。初めてお声を拝聴したが,顔からは想像できない元気な方で,年もかなりいかれているはずなのに,今まさに現役という感じがして緊張感がびんびん伝わってきて,眠っていたぼくの心の最高の刺激剤になりました。本屋さんにいけば彼のきれいな星座の写真の御本がたくさん並んでいます。もし,時間がおありでしたらご覧ください。正確な技術力に裏付けられた彼の星の世界への愛情がすごく伝わってきます。