の世界
43 月光の湖199911
月 光 の 湖
 この世界には光と闇の世界があって,もちろん光の世界を創り出しているのは太陽というひとつの存在であることは否定できない。
 この作品にある月の光ももとをたどれば太陽の光を反射して光っている。そもそもこの世は闇の世界であり,太陽があるから光の世界があると言える。
 そして,太陽が出す直接の光以外は全てが反射光であり,我々はこの反射光にさまざまな色彩を見いだしている。
かのゲ−テはファウストの悲劇第二部で,そもそも我々はその人生において決して本源的な光を見ることはできない,と述べている。
 つまり太陽の光そのものを決して見ることができないように,我々は我々自身の人生の本源を見ることはできないのだと,いうのである。
 そして続けて,だから本源的な光に背を向けたときに我々は我々の生を初めて見ることができ,そのときに本源的な光のさまざまな反映として目にすることができる,という。
 つまり,虹が太陽を背に向けたとき眼前の空に見えるように,人の生は本源的な光を背におったときに初めて虹のように七色に輝くというのである。
 このことをゲ−テは「本源の光のさまざまな反映,それが我々の生なのだ」と実に単純な言葉の中に言い表しています。
 月は太陽からの光を受け,太陽が照らすことがない影の部分,つまり夜の世界を太陽に代わって照らしています。
そして,我々は闇の中だからかえって,月光に静かな想いを重ね合わせることができ世界を静観し,また自分のことを深く考える機会を持つことができるのではないかと思うのです。
 人間の生は永遠の闇と永遠の闇に微かに射し込んだかすかな光だと思いますから,この闇から闇へと動いていく月光を見ると,自分たちの生の動きを見ているかのような気持ちになるのです。
 そして,この作品にあるような黄金色の色彩になるのは,月光が地球の大気の中を通る間に青い色の波長を失った結果,このような神秘的な色彩を描き出してくれます。
 つまり,太陽と月と地球がその神秘的な協調によってこの天空全体に色彩を反映させており,それが実にゆっくりとした回転運動によって時間ごとにその色彩を微妙に変化させていくのです。
 それが毎夜違う色彩にうつろうわけですから,これぞまさにゲ−テのいうさまざまな光の反映だなと思うのです。ですから,ぼくは自分たちの人生を闇の世界と対照させることが必要なときがあるではないか,と思うのです。
 少し疲れたら真の闇の世界に帰って,自分と素直に向き合う時間が必要なのではないかと思うのです。闇の世界に映し出された自分たちの人生を冷静になって眺めてみるのもいいものかもしれません。

 さて,この作品は北海道の洞爺湖という湖での撮影です。
洞爺湖というと温泉街があり,ホテルが建ち並び,少々俗っぽい湖という印象かもしれませんが,とはいえ,湖は広く温泉街の対岸にいくと誰もいませんからそれはそれは静かなものです。
 その対岸に,北大の臨湖実験所があって,ぼくはしばらくここにいたものですから,今でも,秋が来るとこの湖畔のしっとりとした美しい紅葉の世界を思い出しますし,真っ暗闇の中で月の光が湖の岸辺に寄せる波に反映し,岸辺の小石が黒銀に光輝いているのがあんまり美しくって写真を撮るのもやめて眺めていたのを思い出します。
 この作品はその後,思い直して,沈みゆく月を撮影したもので,静粛な気持ちのいい秋の宵闇の時間が見せてくれる光景です。ベ−ト−ベンに「月光」というピアノソナタがありますが,静寂の湖が横たわった闇の世界に黄金の月が沈んでいくこのような光景はこの月光という曲の一楽章の持つ雰囲気にとてもよく合っているように思います。
 かつてからぼくは『月光』というテ−マで月の撮影を続けているのですが,出会う場面場面ごとにかのベ−トウ−ベンの月光ソナタの一楽章を心の中で想っているような気がします。そして,月光ソナタのようなセンチメンタルな月の作品集をいつか完成させたいと願います。
 そして,この地球のさまざまなところで月と出会うことがいつしかぼくの夢になっています。限りなく透明な世界の中で,生きていることの幸せの中で月の光に接吻したいと想うのです。

■しし座流星群

1999年11月17日の夜にヨ−ロッパで大出現したしし座流星群でしたが,残念ながら日本各地では 見ることができませんでした。一時間に5000個の流れ星が夜空を飾ったかと想うとそれはきれい だっただろうなあと思います。
 ぼくは大出現のピ−クが過ぎた後,18日の夜にも見に行ったのですが,北斗七星のあたりで数十個の流れ星を見ることができただけでした。
 もう一生流星雨というような雨のように降る流れ星は見ることはできないでしょうが,よく考えると自分たちの一生のうちに見ることができないものなどたくさんあるんじゃないかと,思い直しました。
 自分にそれらを見る力がなかったり,その価値を知らなかったり,つまらない日常ばかりに自分の貴重な時間をとられていたりして,結局,見ることも感じることもなく通り過ぎていく宝石のような時間がたくさんあると思うのです。
 だから,何もしし座流星群が見ることができなかったからといって別にいつもと同じではないかと,どこかあきらめているところがあるのですね。
 例えば,11月〜12月初旬,あんまり気温が下がりきらない頃,雪が降ると,世界はそれは美しい銀の世界にその姿を変えるのです。雪の風景というのは雪が多すぎても,寒すぎてもあんまりきれいではなくて,実は今くらいのあんまり寒くない頃,気温が0℃を前後するあたりが一番きれいだと思います。
 しかし,それがわかっていても,ぼくはそこに行ってその光景を目にすることができないでいます。どうしようもできない日常の中であきらめてしまうのですね。そして,今年は無理だから来年,と思っているうちに一生を終えてしまうのではないかとさえ思ってしまうのですね。

■2000年カレンダ−について

 3ケ月の歳月を経て,ようやく完成したわけですが,何とかほぼ満足なものに仕上がりほっとしています。
一時はどうなるかと思いましたが,製版の人,本刷りの人と,最高の技術を披露してくれました。
 この慶ちゃんが選んできた紙に印刷をするということは想像以上に困難を極めることですから,みんなよくここまでやれた思います。
 印刷では白を出すにはインクを使えませんから,白は紙そのままの白を生かすのです。
ところがこの紙は黄色がかった紙ですから白を出すことは事実上できません。ところが,2月の雪原など白い雪の世界に見えるから不思議です。
 そして,このざらついた紙は写真からコントラストと微妙な階調を奪ってしまいます。
ですから,製版の機械任せにしただけではこのような忠実な再現はできないので,後は人の腕に頼るしかないわけです。このような手間を省きたいために写真のカレンダ−は全て,光沢紙に刷ってしまうのです。
 この紙だとほぼ機械任せであっというまにできてしまうのわけですね。
ですから,結局周りの技術者の腕が慶ちゃんのようなひとりの女の子の要求によって鍛えられていることは間違いないと思いますね。
 もし,彼女が要求しなかったら機械に任せてもう人は何もしなくていいのですから。
それでも4月のすみれの花びらの色は出ませんでした。これは悔やまれます。フイルム上に再現されているすみれの花びらのなんとも言えない微妙な色調の再現は難しいらしいですね。
 フジフイルムのRVP(ベルビア)というフイルムはもう新しく発売されてから10年くらいになるのですが,全く改良もされずフジフイルム自体これを越えることができないでいるようです。
 このフイルムとぼくが使うMamiyaの80ミリF4マクロレンズの相性は抜群で,実に柔らかい雰囲気の再現をしてくれます。星の数ほどある写真のレンズの中から自分の好みに合うレンズと巡り会うことはもう奇跡的なことですね。

■わし座に新星出現

 今,わし座で新星が明るくなっているそうです。
新星というのは星が長い一生を終えるときに爆発して,一瞬明るくなって,いつも星のないところに明るく星が見えるようになる現象で,ほんの2,3日の出来事です。
10数億年の一生を持つ星の終焉にかかる時間が2,3日というのはあっけないものだなあとあらためて思ってしまいます。
 ぼくたちの太陽の終焉も同じことでしょうから,この普遍とさえ思える世界でさえいつかあっけない終焉の日がくるかと思うと考え込んでしまいます。
 自分たちのこの想い,この活動,この美しい世界がなくなるときが来るなんて考えられないですね。いつ,なくなってもいいそんな生き方をしなくてはならない,そうあらためて思うのです。