の世界
35 小さな命 19994
小 さ な 命
 この作品は早春のエフェメラル(妖精)の一つに数えられるキクザキイチリンソウの芽生えの頃をとらえたもので,彼女は誰にも知られることなく春になるとその小さな命を大地の中から持ち上げて来ます。
 春が近くなると,ほんの少しずつお日様の光も強まってきて,ゆっくりとゆっくりと雪が後退していきます。
すると,長い冬の間,雪に押さえつけられて大地に押しつけられたまま姿で,湿った下草がその姿を現し,その湿りが乾かないうちに大地のあちこちから福寿草,ふきのとう,このキクザキイチリンソウが大地を突き破るような感じで出てくるのです。
 ぼくはといえば,この雪が後退していった跡の湿った大地の様子が好きで,早春の花々がその芽を出す前,ほんの2,3日の間のぽかぽか陽気の瞬間,まるで時間が止まってしまったかのようなあの感覚がたまらないのです。
 しかし,一度芽を吹きはじめるとすさまじい勢いであちこちから芽が現れて,いつのまにか大群落に変わっていきます。湿った土が乾いてくると,どこからともなく春風に乗って土の匂いが香ってきて,久しぶりのこのほのかな土の感覚のために心がぽかぽかしてくるのがわかるのです。また,春の強まってきた日差しを受けて,乾いた落ち葉の上に横になって,空を仰ぐのも早春の森ならではの楽しみであります。
 しかし,北国の早春の夜はかなり冷え込むことが多く,夜明け前などに森の中に行って,この花たちを見ると,なんと凍り付いていることがよくあります。しっかりと花びらを閉じて,氷のように固くなっているのです。
 それが,日の光に当たると急速に溶けて,息を吹き返すように見えます。この作品はその息を吹き返してきた瞬間のもので,よく見ると花のつぼみの先端に溶けた氷の雫がついているのが見えます。ぼくからするとよく生きてるな-という感覚なのですが,みなさんはどう思われますか?

 さて,キクザキイチリンソウのことなのですが,かれらは雪の小さな粒のようにまばらに群生したり,小さなコロニ−(直径30Bくらいかなあ)をつくってそのコロニ−が点在していたりと,様々な分布を示すようで,いずれにしても雪のように白い花は美しいものですね。
 このキクザキイチリンソウをもうすぐポストカ−ドにすることができるのですが,やはりいいものですね。
一点の緑もまだない世界に,白い花をめいっぱい咲かせるキクザキイチリンソウ。もし覚えてらしたら,今度できるカタログにのっているので御覧になってくださいね。
 さて,福寿草,キクザキイチリンソウ,ふきのとうときたら次はご存じの方も多いのですが,カタクリが咲き始めますね。それからエゾエンゴサクという薄い紫の小さな花が咲き始めます。
 このエンゴサクの花もそれは妖精のようで,函館郊外のぼくだけの秘密の場所の白樺の林一面には見事に咲き誇ります。
まだ,誰にもお見せしたことがありませんので,いつかお見せできればいいなと思います。ぼくはここの白樺林には霧がたちこめているのが似合うなあと思います。
 花たちの生気がたちのぼって,妖精のようにさまよっていても決して不思議ではないように思えるからです。

●春,その想いの断片

 今年のカレンダ−の6月の花であるリラの木がぼくの庭にある。
今から4年前,リラ(英名,ライラック)の苗木だというのでホ−ムセンタ−の苗売場から買ってきた一本の棒切れだったものが,年々大きくなって今年はすでにすごい数のつぼみをつけている。
 リラの木の新芽は言い表しようがない程かわいいもので,文鳥のくちばしほどの大きさの木の芽が90度くらい開いて,二つ並んでついています。その芽が膨らんでほんの少し開いたところに小さなブドウの房のようなつぼみがちゃんとできているのです。
 それが今,日増しに大きくふくらんで来ているところです。あと一月もすれば咲くのでしょうね。

 もう一つ木の話し。どこから種が飛んできたのか,去年から庭の片隅で白樺の木が育っている。
去年一年で,ぼくの背の高さくらいに成長し,今年も一番乗りの速さで,新しい葉を出して,元気いっぱいにお日様の光を浴びている。
 今年はいったいどのくらいの大きさになるのでしょうか。家の前の大きな白樺の木は花盛り。桜ばかりが注目されて影が薄いんですが,めいっぱい咲かせている。

 先日,札幌に仕事で行ったとき,ぼくはその途上の風景をとても楽しみにしていきました。
函館から札幌に向かう途上にあるニセコというところは北海道一の豪雪地帯。
とても雪の多いところなのですがもうすっかり雪もなくなり春の気配がそこまでやってきていました。
 函館で桜が咲いたのは,5月2日のことで,そのときにはニセコや札幌はさすがに桜とまでは行かない様子。
しかし,雪解け水が力強く,荒々しく流れるさまには心打たれました。雪が空洞になって,その下を勢いよく流れていく雪解け水の勢いに励まされたのです。
 車窓からは,所々に水芭蕉の群落が見えて,ふきのとうは嵐のように吹き出しておりました。
水仙もようやくつぼみが膨らみはじめていました。緑といえば柳たちと下草程度しかなく,まだまだ山肌は茶色にくすんでいます。
 しかし,その茶色の山肌に今年はちゃんと,こぶしの花がまるで雪が舞うように咲いているのが見られます。北国の4月は全体に緑を始めとした色彩に乏しく時間も止まっているように見えて,とてもゆっくりと過ぎていく,季節外れという月なのです。
 しかし注意してみると5月という季節の絶頂を前に力をぐ-っと力をためているように見えるのです。

 そんな4月の日だまりはもう最高の贈り物。
撮影するものがあまりないから,ゆっくりと時間を味わうことができるのです。
撮影は観察と感覚の敵。撮影のない時間に小さな自然の変化に気がついて,秘かにうきうきしている時間っていいですね。
 ああ,今は日常の窓から首だけ出して,つかの間の宝石の時間を味わっているに過ぎないのですが,いつか,もう少し踏み出してこのあふれんばかりの自然の営みを感じていたいと思っています。
 今年もやりたいことたくさんあります。写したいものもたくさんあって困ってしまいます。それなのに,北国の季節って短すぎますよね。5月から10月の半年しか時間がない。
 今年もようやく始まります。本州にいると今頃何を言ってるんだとお思いでしょう。しかし,北国にいるとこのゴ−ルデンウイ−ク頃,桜が咲き始める頃ようやく季節が今年も本格的に始まるんだな-という風に思うようですね。
 5月は遊ぶことまで計算にいれると,寝る暇がないほどにいろんなことが次々と巡ってきます。英語で,“burst into blossoms”という言葉がありますよね。まさに北国の春というのはこの言葉のように,破裂するように花が咲き,自然は瞬間の芸術に高まっていきます。