の世界
34 雪の灯と街の灯 19992
雪の灯と街の灯

-北海道 函館市-

雪が降っている。
雪が街の灯のなかに溶けていく。
なんて,きれいなんだろう。
 昼を少し過ぎた頃から降り出した雪が,灰色だった街をまたたくうちに白一色に塗り替えていく。雪は強い。誰がなんと言おうと,黙って白い無音の世界をつくりあげていく。
 夕闇の青い時間が迫ってくると,その青白い音のしなくなった静かな街に,街の灯がぽつりぽつりとともり始める。すると街の灯は雪に彩られた家の屋根や道に反射して,青白くぼおっと浮き上がって見えはじめる。いつもは灰色の地面に吸収されていく灯が雪を照らし,雪に映える。何という静けさだろう。何という美しさだろう。

 街の灯と雪の灯がひとつになるとき世界は青白い炎となって輝きを放っている。夕闇が少しずつ後退して,夜闇が迫ってくると,青い色彩はますます濃い青に変わり,街の灯もその数を増し,空や海をまきこんでその美しさは絶頂に達する。あまりに美しすぎて,せつなさがしんしんと胸に迫ってくる。大地の底の底まで透けて見えるほどの透明感が心を打つ。夜の闇が完全に支配してしまうまでのほんの一瞬の時間。あまりに静かなあまりにはかない時間。

 この昼の時間と夜の時間が交代する時間というのはいったいどれくらいの長さがあるのだろうか。この日ぼくたちはこのことを話しながら撮影を終えて帰路についた。そして,数日後現像されてきたフイルムを整理しながらもう一度このことを語り合った。撮影の方法としてはきれいだと思った瞬間からレンズを変えたり露出を変えながら二人の力を合わせて全力をふりしぼって,撮影に挑む。その結果,フイルムに残る最高に美しい瞬間はたったの4枚だけで,時間にすれば1分もあるのだろうか ちょうどそのころの露出時間は一枚につき16秒くらいであることが多い。めまぐるしく変化していく色彩の世界を目の前に16秒という時間は気が遠くなるほど長く感じられる。ああいう感じのもこういう感じのも撮りたいと気ばかりが焦ってくる。

 しかし,結果から言うときれいだと思ってからひたすら写し続けても40枚写せればいいほうで,そのうち最高に美しいと思えて作品に使えるのは4枚だけということになる。時間にして1分から2分という瞬間の見せてくれるきわめて美しい時の芸術であるように思えます。ただ,写真作品になって最高だと思われる瞬間と,眼で見て美しいなあと感じる瞬間とは少々ずれるようで,このことはよくわからないのですが,人の眼はほんの瞬間に美しさを感じるが,フイルムは16秒間ゆっくりと光を蓄積して表現しているからではないでしょうか。以前ラジオで夜景の写し方についてたずねられたことがあったのですが,ぼくはそのとき,眼のフイルムに写すのが最もすばらしいと云いたくていえなかったことがありました。人の眼の性能はあまりにすばらしいのです。人の目の前にあって,カメラのレンズもフイルムも一歩も二歩もゆずらなくてはならないことがあります たった一枚の凸レンズの性能に近づくためにカメラのレンズは10枚も15枚もの様々な形や材質のレンズを組み合わせなければならないのです。話はそれましたが,この昼と夜の時間の交錯が見せてくれる最高の瞬間は1分からせいぜい2分間ということになりそうです。ただ,この一日がよりすぐりの一日であることはお伝えしておきたいと思います。ひと冬のよりすぐりの一日の更にその1分間が見せてくれる美しい世界!

 
 ぼくたちの仕事はこの大切な美しい時間を探り当ててそこに確実に立ち,その時間の美しさを損なわないようにフイルムに定着させていくことだと思います。「最高の時間探し」このためにはもっと知識と経験を積まなくてはなりません。 

★太陽系惑星たちのランデブ-

 今,西空に金星と木星がならんで光っています。このことをカレンダ−に書けなかったのはぼくの力のないためで,どうもすみませんでした。来年のカレンダ−はさらにパワ−アップしてしっかりと惑星たちの動きも載せていきたいと思います。ぼくとしたことが何といううかつなことでしょう。今,西空で見られる惑星たちのショ−は一般には‘惑星直列’と呼ばれていますが,ぼくはこの惑星が一列に並ぶ現象がなにより大好きなのです。広い大地に立たなくても,少し想像力を働かせればここが‘太陽系’であることが意識できるのですから。今まで何度もこの惑星直列の現象と出会ってきました。ある時は貧乏学生のころ友人と汚いアパ−トの玄関のところで夜明け空に見ましたし,またあるときは,神戸に地震が起こったまさにその朝,二本の樹の頭上に光る姿を見ました。それが今回は三日月さんまで加わってとてもきれいでした。やはりぼくはそれを二本の樹のところで見ることにしました。かつて望遠鏡で金星を見たことがありますが,金星は真珠色に輝いて見え,それをヴィ−ナス(美と恋の女神)と呼ぶのはよくわかります。また,真暗な中で星を写していて,夜明けが近づいてくると東の空に金星が上ってくることがよくあります。そのときの金星の姿は美の女神という印象とは違いまるで火の玉のように見えます。

 暗いところに慣れた眼には金星の輝きはあまりにまぶしすぎるのです。本当に飛び上がるくらいびっくりしてしまいます。金星の他ではおおいぬ座の1等星シリウス(‘焼き焦がすもの’という意味で全天20個の1等星の中で一番明るい)もすごいまぶしい星です。森の中の静かな湖にはよく空の星が映るのですが,少し風が出て他の星が消えてしまっても,シリウスだけは湖面の波のざわめきにゆられて長く線を描くのです。金星はいうまでもなく神秘的な黄金色の波のざわめきを描きます。

★木星についてもついでだからメモ程度に書いておきます。

木星はジュピタ−(ゼウス;最高至上の神)であり,太陽系で一番大きな惑星です。もう少し質量があれば‘太陽’になれたといわれています。木星の一日はすごく短くてだいたい9時間55分しかありません。あの大きな体で地球の一日の約半分の時間で一回転してしまうのですからもう大変ですね。ちなみにその速度を計算してみますと,時速47000H,秒速13000Eということになりました。これは地球の自転速度の27倍にあたります。(地球は時速1700H,秒速400Eくらい)

 こんなに速く回るものですからよく見てみると横に大きく伸びてしまっています。木星の一年は地球時間の12年にあたり結局は木星の一年は10751日あることになってしまいます。一年が10000日あって,その一日がたったの10時間しかないとはいったいどんな暮らし方をすればいいのでしょうか。

 木星を小さな望遠鏡で眺めてみると,二本の横縞がとても印象的に見えます。本当はもっと複雑な模様があるのですが,ぼくの望遠鏡ではこの程度しか見えません。惑星の見え方はシ−イングと言いまして,空気があまり動かない場所であるとよく見えるのです。惑星に関しては街明かりの影響はあまりなく,それよりも空気がじっとしているときがよく見えるときなのです。遠くに街明かりを見て,きれいにキラキラとまたたいて見えるときなどはあまりきれいに木星などの惑星やお月様を観察することはできないのです。そこで,今月は少しだけ望遠鏡のことについて少し触れてみますね。

☆望遠鏡について 

 望遠鏡にはレンズを使った‘屈折望遠鏡’と,鏡を使った‘反射望遠鏡’の2種類があると思ってください。いずれもその性能は倍率で表さず‘口径’で表します。口径とはレンズの直径であり,鏡の直径のことです。だからぼくたちはよく15B反射望遠鏡だとか10B屈折望遠鏡というふうに呼びますが,この長さはレンズや鏡の直径のことを言っています。この口径が大きくなればなるほど,理論的によく見えるようになるのです。この口径の大きさに比例してかけれる倍率も大きくなるのです。では望遠鏡など光学系の‘よく見える’とはいったいどういうことなのでしょうか。これは口径が大きくなれば‘分解能’が上がるという言い方に表れています。この‘分解能’が最も大切な性能なのです分解能というのは遠く離れたところにあるふたつの点を区別して見ることができるかどうかという能力です。この分解能が高いと,より鮮明でクリア−な像を見ることができるのです。分解能は理論的にはやはり口径が大きいほど優れているのです。

 ではここで,なぜ望遠鏡には2種類のものがあるのでしょうか。屈折望遠鏡と反射望遠鏡のことです。どちらがいいかという話になると言葉を失ってしまいます。かつて,そのことで友人と大げんかになったことさえあります。                         まず,望遠鏡の性能の目安となる‘口径’で比較してみますと,同じ大きさの口径ですと屈折望遠鏡の方がはるかに値段は高いものになります。15B反射が10万円くらいだとすると,15B屈折は200万円くらいはしてしまいます。ところが 8Bくらいの屈折望遠鏡となると10万円くらいで手にはいります。これはレンズの材質である光学ガラスの大きなものは手に入りにくいことに関係しているのだと思います。

 反射望遠鏡はというと,鏡筒の底に鏡を置いていて,この鏡でかすかな光を集めます。この鏡の面は放物線になっていてわずかに球面からずれているのです。球面に当たった光は一点に集まりそうですが,実際は集まらず,光を本当に一点に集めるためには放物面にしなくてはならないのです。この放物面鏡に磨くのは職人技で,このために鏡は磨いた方の名前で呼ばれることがよくあります。有名なものに,‘苗村鏡(なむらきょう)’などがあります。

 鏡のいいところは,色収差といってレンズを通下した光がその色によって一点に集まらないということがなく,屈折式のように月を見ていて周囲に色がついたりすることはなく,すっきりと観察することができるのです。しかし,取り扱いが少々難しいのが問題なのと,残念なことに,写真撮影にむかないのです。写真の場合,フイルムの広い面にわたって均一にピントがこないといけないのですが,反射の場合これがニュ−トンが設計して以来,設計上無理なのです。ぼくは反射式で撮影したときに得られるクロスした光が好きで,反射のファンなのですがすごくくやしいことです。

 屈折式の場合は色収差があって,屈折望遠鏡の歴史はこの色収差を克服していく歴史とも言えるのです。その昔学校の先生はレンズを通った光は一点に集まると教えてくれました。しかし実際,光はその色によって屈折率が異なり,一点に焦点を結ばないのです。この色によってばらばらな焦点の位置をできる限り一点にしていく努力が今もなおなされているのです。今のところの天然の蛍石をレンズに使うと,ほぼ完璧に補正できるのです。しかし,天然の蛍石は高価で,柔らかくテイッシュでふくこともできません。この蛍石を使った望遠鏡が出る以前は様々な形や材質の凸レンズや凹レンズを何枚も組み合わせる工夫をつづけていましたが,どうしても無理であったようです。
 ところが,昔の望遠鏡はなんともおしゃれなもので,胸をわくわくさせて憧れたものです。今,性能は上がったのですが,どこか心に響いてくるところがないのです。このことは,望遠鏡だけではないように思えるのですが,みなさんはいかがお思いですか?