の世界
49 仙境の領域 20005
仙境の領域

-北海道 厚沢部町 -

 今、北国は最高の季節の中にいる。

 これから6月、7月と連なっていく季節はその高まった季節の緊張感を緩めることなく続いていく。そして、その緊張がようやく緩むのは8月に入ってからで、8月、9月は透明な空気感の中で、ようやくほっとした時間を思う季節となる。

 季節の中でエントロピ−が極限まで高まった状態からふっと抜け出すとでも言えばいいのだろうか。
そんな晩夏から初秋にかけての時間は一年の内で最も空の美しいときで、空はどこまでも透明で光輝く季節である。

 9月も終わり頃になるともう大雪では世界で一番美しいと言われる紅葉の季節を迎え、またぼくたちの心はにわかにそわそわしてくる。
 それから大雪が紅葉を終え、初雪の頃となると、低地でも紅葉の季節となってめまぐるしいばかりの季節の交錯と目の前に近づいた冬の到来の緊張感に心が緊張し始める。
 北海道の秋で一番ぼくが深淵な緊張感を感じるところはやはり大雪山で、最も親しみを感じるところは函館郊外にある大沼の紅葉だろう。
 

 また、違う意味で、函館郊外の深い森の中で感じる秋にも季節の終焉の見せるその素顔に襟を正さなければならないと感じることがある。

 さて、今月の作品はその函館郊外の森の春の風景をお届けしたいと思います。
この作品は函館から江差方面に車で約40分くらいのところにある厚沢部(あっさぶ)という町から少しはいったところの森で、深い深いブナの森です。ブナは森の他の樹木よりも新緑するのが早いので、ブナが多い森に来るといっぺんに季節が進んだ気がします。
 この同じ日、途中にある峠の函館よりなどはブナがないため、まったく緑の葉をまとった樹木がなくて、まるで冬そのもののような印象を受けました。時にこの作品の日は5月14日で、他の森を遠くに見ると、茶色の山肌にこんもりとした緑が点々と点在しているのが見られました。
 このこんもりと豊かな緑こそ、ブナの木の新緑で、他の木たちがいまだに葉っぱひとつ出していないのにひとりで明るい豊かな緑の葉を茂らせ、風に揺れているのです。
 このブナの木は北海道では道南にしかありませんから、
道南の森に春の訪れた印象をいち早く感じさせてくれるのはこのブナの存在が大きいと言えます。

 逆に、道南以外の春の訪れはかなりの辛抱をさせられるということになります。ブナというのは木辺に「無」と書いてブナと読みます。
 この木では無いという考え方の根拠はその昔、建築材としては狂いが生じやすいからという一面的な見方によったといいます。また、ブナは他の木に比べてとても成長が遅いからというのもその理由かもしれません。そのためブナは日本では魚のトロ箱としてしか利用されなかったのですが、ヨ−ロッパではあるデザイナ−によって数十万円にも値する家具製品に生まれ変わったそうです。

 しかし、今日本でも秋田の白神山地のブナ林が世界遺産に登録されてから徐々にブナの存在は人々に知られるところとなって、その根や葉の保水力は水害や土砂崩れを防いでくれている立役者として見直されてきています。

 先日、友人から聞いたことなのですが、現在のブナの北限は道南の黒松内町あたりとされていて、札幌のある石狩低地帯などを越えてその分布を北上できない理由について、彼はその繁殖能力の低さを主な理由にあげていました。 
 
つまり、今道南が北限となっているのは気候のせいではなく、ブナは今長い年月をかけて北へ北へとその分布を広げている途上なのだというのです。ぼくはこの考えに心打たれました。何万年という時間をかけてその分布を広げていったり後退したりする巨大な時の流れが、時としてそれを忘れさせてしまうような我々の生活の身近にあるかと思うと戦慄を覚えます。

 ス−パ−に買い物に行ったり、あくせく働いては過ぎていく生活の身近にこんなにも生き生きとした広大な時の流れがあるのかと思うと、それだけで感動してしまいます。

 かの、星野道夫さんがアラスカで感じていた普遍的な世界観に通じるものがあるように思えました。この写真の風景はそんなブナの森がぼくたちに見せてくれた仙境の世界でした。あたりはしんと静まった霧雨の降る春の夕暮れでした。
 このしっとりとした自然観こそ我々日本の心の故郷のようにぼくには思えるのです。
『敷島の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花』

 
今年の春は、道南の渓谷をできるだけ訪ねてみました。その度に、そのしっとりとした自然に心がなごみました。そして、この本居宣長の句が頭に浮かんでは消えていきました。
 
人にあなたはどのような心で生きていますかと尋ねられたら、朝日にその香りを漂わせている山桜のようにしっとりとした心で生きていますよ、
と答えられるようでいたいという想いなのだと思うのですが、そのような想いの世界が道南の渓谷には漂っています。まったく人の気配を欠いたいわば野放しの野性的な自然なのだけれども、ここより北にはない日本的な情感なのです。この句をここで書いたついでにもう一つ西行の句を紹介したいと思います。
ゆくえなく月に心の澄み澄みて果てはいかにならんとするも
世の中や、自分の人生などの先は全くわからないけれども、心だけは月のように澄んだ心でいたい、とする歌ですね。全くそうなりたいと思います。でも、月のように澄んだ心ってどんな心なんでしょうね?ぼくにはわかりそうでわかりません。しかし、多分こんな感じで、と思うように生きていきたいと思います。そのうちに、西行の言う月のように澄んだ心の本質がわかるようになるかもしれません。

■5月22日
狩場山(道南の日本海側にあって、アイヌ語のカリンパヌプリ=桜の多い山から来ている)に行ったのですが、今年は雪が多くていまだゲ−トが開かずに泣く泣く帰ってきました。例年5月の連休の頃にはゲ−トはあけるのだそうですが、今年は6月の初旬になるとのことでした。この狩場山には蓄積量では日本一のブナ林があったり、北海道で一番大きな滝となる賀老の滝があります。ぼくは今年こそは、残雪とブナの新緑を写したくて行ってみたのですが、ブナ林周辺はまだ40〜50Bの積雪があると言われ、年によってこんなにも違うものなのかとあらためて出直すことにしました。

■道南は、八雲町に遊楽部岳という山
があります。この周辺にも行ってみたのですが、ここはブナというよりもいろんな種類の木が多くて、森を俯瞰すると、春、芽吹きの頃には多種多様な色彩にあふれていて嬉しくなります。
どっちかっていうとカエデの木が目立ったかなと思います。カエデは春にも黄色やオレンジに見えるので、遠くからでも良くわかります。カツラという木も遠くから見ると春の芽生えは赤っぽいので良くわかります。

■今年はコブシ(春一番に白い花を咲かせる木)の当たり年
で、いろんなところでコブシの咲いているのが目につきました。コブシは年によって咲いたり咲かなかったりするのですが、今年はこんなにコブシってあるのかと思わせるほどコブシが咲いていました。例年、4月の下旬頃に真っ先に咲くのですが、今年は5月も終わろうというのにいまだに咲いているから不思議でしょうがありません。でもそのせいで、新緑と桜とコブシというあまり撮れないような作品をたくさん残せて楽しかったです。函館近くの牧場から大沼に抜ける峠道の途上で出会ったコブシの老木には心打たれました。ぼくはコブシは満開を少し過ぎて、少々枯れかかった色彩が入った頃が好きです。

■八雲という町の牧場近くのトドマツ林の中
で、エンレイソウ(白花)の大群落に出会いました。エンレイソウといのは北大の校章にもなっている花で、花も葉も三枚で少し背高のっぽの花です。30cmくらいもあるのかな。よくはわからないんだけれど、エンレイソウの群落に出会うのはいつも針葉樹林の中なのです。なにか理由はあるのでしょうか?でも、このトドマツ林の中には小さな小川が流れていて、それはもうおとぎ話の世界に出てくるようなところでした。二人で一致して、こんなところが理想なんだよね、と言いあったところでした。

■シラネアオイという薄い紫の花
をご存じでしょうか?今年はいつになくシラネアオイにたくさん出会いました。シラネアオイは他の早春に咲く花に比べてやや大ぶりですが、森の奥に咲いているとその色合いその姿は森の妖精のように見えます。そして、必ずと言っていいほど斜面に咲いているので撮影には苦労させられます。しかし、そのために下から見上げるような感じで撮影できるので、まるで森に漏れてくる光の中で、深呼吸しているような感じで、ファインダ−の中に浮かんで見えます。

■恵山(えさん)という山は
函館から東40〜50Hくらいの海に面したところにある火山で、そこには北海道では恵山にしかないサラサドウダンツツジの立派な木が数多くがあります。そして、近くに海向山という山があるのですが、その山に向かう散策路はブナなどの大木がなく、サラサドウダンなどの低木が続く森で、とっても日差しが気持ちがいい森です。今年はサラサドウダンの花が咲いて、そのトンネルをくぐれるのは6月初旬頃のようです。去年は遅かったから今年こそは間にあって必ずいつか紹介したいと思います。とにかく、その場の雰囲気がすごくいいんです。サラサドウダンとドウダンツツジの森。北国の小さな森とでも言いましょうか。