北海道は道南にある函館とはいえども朝、夕にはめっきり冷え込むようになって、もうそこまで秋が来ていることがよくわかります。
しかし、今年の9月は雨ばかりで、いつものさわやかな9月の印象とは違っていました。いつも9月にはいると移動性の高気圧のおかげで、空はぐ〜んと高くなって、低いところを行く雲と、高いところを行く雲が澄んだ青空を背景に白く浮かび上がって、草原にはすすきが風になびき、ノコンギクが清楚に咲き、いかにも初秋のすがすがしさが世界をとりまくという感じになります。
特にぼくは夕焼け雲や雲ひとつない澄んだ夕空の黄から橙、赤、紫、青、黒へと変化していく空の階調がたまらなく好きなので、そんな空と出会える確率の高い9月になるとそわそわしてきます。そして、移動性高気圧のために雲は高く、おまけに地平線に雲がないから何がなんでも焼けるわけなんですね。
『焼ける』とは何のことかっていうと、「夕焼けになること」で、午後遅くなってくると夕焼けになるかならないか、そのことがぼくたちの大問題になるのが常なのです。「夕焼けになるかならないか」そして、「どこで夕焼けと出会うのが一番美しいか」を正確にできるだけ早く判断しなくてはなりません。
秋以外の季節は夕焼けになることはとても少なくて、特に冬は全く夕焼けには出会うことはできません。ところが秋になると、いつもの条件からいうと「焼けないはずだ」と判断したのに、焼けてくることがあるんです。それが「何が何でも焼く秋の空」という胸中の想いをつくっていくことになります。この頃はかなりの確率で、夕焼けになるかならないか判断できるようになったのですが、それでも判断を誤って、街に別の仕事で出かけた矢先に焼けてくると、胸をかきむしるくらいにくやしい。
自分の甘さに腹がったておさまりがつかなくなる。夕焼けをめぐっては慶ちゃんといつも話題になることは「見るだけじゃだめなんでしょ?」ということだ。彼女はゆっくりと見ているのがいいと言います。ぼくは写したくてしょうがなくなる。どうして?と聞かれてもよくわからない。
たとえ同じ色彩の夕焼けでも、写さないと気が済まないどころか、写さないで見るなんて、もったいなくてできない。彼女を見ていると違うものだと思うことがよくある。それもまた参考になる。自分のフィルム室にこもってフィルムを眺めているとやたらと空のフィルムが多いのに気づく。空ばっかりこんなに撮っている人もいないんじゃないかと思うと、複雑な思いがする。
どうして、空がこんなに好きなのか、いつの頃からこんなに好きなのかよくわからない。でも、昔に比べると空が小さくなったと感じる。高村光太郎の智恵子さんが東京に空がない、と言ったのはよくわかる。確かに街の中にも電線越しに空は見えるんだけど心の中にある空はそんな空じゃない。
どこまでもぱ〜っと広がっていて、何もかも忘れさせてくれるようなそんな真っ白な雲と空のことを言ってるんだろう。智恵子さんのことはあまり知らないけど、そのことは何となくわかる。ある、ラジオ局の知り合いの女の子に、写真展で出会ったとき、彼女は「私、空が見たくなりました」と言って、局をやめると聞きました。大学出て、就職して今まで、がむしゃらに生きてきたけど私、何を見てきたんだろう、という想いの途上……、その後彼女から一通の葉書が来ました。結婚しました。という連絡です。
楽しそうな男の人と写った一枚の写真が添えられてた。二人で空を見ていくことにしたのでしょう。
二人の次は三人、四人と広がって、夢は空に広がるのかなあ?ぼくのセットのポストカ−ド集に『美しき空を見つめて』というのがあります。たった8枚なのですがその説明の中に、この空を見つめて生きていたい、それだけでいい、というような意味の文章を載せています。
本当にそうでありたいと思います。仕事が忙しくなると気持ちの中に空を見て生活するゆとりがなくなって、目の前にある空が遠くに行ってしまったように思えることがある。空だけじゃない。木も花も、星も、虫もこの世に生きてる何もかもが遠くにいるような気がしてどこか寂しい。
人だけが生きているそんな世界に生きて、生きているなんてとても思えない。世界は広い。どこまでも未知の世界が広がっている。心が知らない遠くにも、また、普段気づかない心の奥の世界へも。
今月の作品は秋の紅葉のものです。紅葉はぼくの写真の原点にあります。何をどう撮っていったらいいのかよくわからないころ、ぼくは秋の雑木林の織りなす微妙な色彩の美しさに魅かれ、よく撮っていました。
最初の頃は紅葉もよく撮ったんですが、白鳥もよく撮りました。最近、あまり鳥や動物は撮らなくなったんですが、最初の頃はよく撮りました。
紅葉には日本画的な雰囲気を、動物には生態系の面白さを感じていたのです。ぼくが生まれて始めて写した風景写真は、ちょうど今頃のことで、白樺の葉がほんの数枚黄色や黄緑に色づいたものでした。どうしてそんなものを写したのか、どこでそれを写したのかよくわからないのですが、とにかく世の中のことが何もわからない赤ちゃんが始めて写した写真だったわけです。その赤ちゃんの心に始めて触れたのが、かすかに紅葉した白樺の木の葉だったのです。
ぼくは、高校を中退した頃、瀬戸内海にある淡路島を独りでバイクに乗って旅したことがあります。その時、父のカメラを借りて、色々なところで自分の記念写真をセルフタイマ−で写していました。その時はレンズの絞りを絞ると自分にもバックの風景にもピントが合い、絞りを開けると自分にはピントは合うが、背景の風景にはピントは合わない、という写真の基本だけは教えてもらっていたので、それが得意で、記念写真を撮るのに絞りをめいっぱい絞って撮ったものです。そうやってできてくる写真を見て、生まれて始めて自分を見た気がしたものです。
そして、それが大学に来て、北海道の自然に出会うと、自分以外の、または人間以外の存在の多様さに気づくわけです。
その年は、とんぼがものすごくいてどこを写してもとんぼが無数に写ってしまうというわけです。出来上がってきた写真をプリントしてみるとゴミ?と思いきやそれがみんなとんぼの形をしているわけです。札幌の郊外の畑の中だったんですが、今まで、そんな数のとんぼなんて見たことはありませんから、びっくりするやらなにやらで、それからも出会うことの何もかもが始めてのことばかりで、何をどうやっていったらいいのかわからなくなってしまいました。
しかし、大学の1年で、始めて見知らない土地に住んで、慣れない中、がむしゃらですが、独り何かに向かっていったのです。
大学時代といえば、サ−クルなどに入って女の子たちと楽しく過ごしてる人たちがたくさんいたのですが、ぼくは一人どんどん生まれて始めて出会った自然の世界へ没頭していったわけです。
いい年ですから女の子と楽しくお話ができたらいいわけなのですが、これが不器用で、一度もそんなことがないまま大学を去ることになります。
ニコンのF2で風景をやっていくには限界があると感じ始めたのはそれから一年くらい後で、運良くちょうど今使っているマミヤM645というカメラに出会います。
その買ったばかりで使い方も知らないマミヤM645とF2を携えて、よくわからない大雪山を撮りに行きます。今から10年以上も前ですね。大雪山といっても、車で行けるところまでで、ろくに撮れなかったのですが、この大雪行きが北海道撮影の原点になりました。
どう生きていったらいいかわからなかったにしても、何もかもが純粋で、合理性があまりなかったから、その場の雰囲気に酔えたというように思えます。
当時、宋次郎のオカリナの曲をよく聴いていたから、そんな感じを思ってください。それが今では、いざ撮影というと、日常をあっちにやりこっちにやりとしてやっとこさあけた数日に大急ぎで出かけていって、大急ぎで帰ってくるといった感じだから、ひたっていないんですね。やっぱりそれは寂しいことで、旅に出るならム−ドにひたっていたいですね。
目標は撮影の旅がひたれる旅にもなることですね。今年ももう大雪山は標高1000mくらいのところまで、紅葉が進んでいると聞いています。あと、10日もしないうちに紅葉は下まで下りてきて、美しい錦の世界が広がることでしょう。今年こそ何とかして、大雪に行きたいですね。十勝岳温泉や三国峠の紅葉は今が最盛期。これらにはもう間に合わないのですが、何とかしてもう少し下の紅葉には間に合いたい。5年前は10月10日に高原温泉に行ったら吹雪だった。
4年前の10月16日に愛山渓に行ったらものすごい雪で、びっくりした。函館にいたら、まだまだ紅葉なんて想像もつかないというのに大雪は寒い世界だとつくづく思う。
朝のニュ−スでも、石北峠で氷点下になったとか聞きますし、実際ぼくらも9月に氷点下を経験した。アラスカなどでは8月の下旬が紅葉の最盛期だと聞きます。ああ、行ってみたいなあ。アラスカはいいなあ。エメラルド色の川に深紅に染まったベニザケが遡上する。サケが川からあふれる。
ベリ−が紅葉するヒ−スのむこうにマッキンリ−がそびえる。湖をふちどる黒々とした糸杉の象形。大雪を何倍にも大きくした世界。完璧な生態系。そして、オ−ロラ。ぼくのカメラはオ−ロラが写したいと言っている。世界で一番オ−ロラむきのカメラだものね。本領発揮したいと言っている。−20℃じゃあ暑いと言っている。もっときれいな世界を写したいとも言っている。いいなあいいなあオ−ロラはいいなあ今年か来年はオ−ロラのピ−クだろうと言われてる。行きたいなアラスカ。写したいなあオ−ロラ。きれいだろうなオ−ロラと月光、カシオペアにすばる……。南半球と違って、北半球で撮られたオ−ロラの背景はいつも見慣れた北の星座たち。
もう、たまりませんね。ぼくのレンズは透明です。オ−ロラに向かっても決して恥じることはありません。
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