の世界
70 荒れる津軽海峡 2002年2
荒れる津軽海峡

-北海道 松前町-

 ■東京へ

 1月、道東で今冬最後になる星の撮影を終えた後、ぼくたちはこれからの目標に少しでも近づくために東京に向かった。しかし、当日天気は低気圧の接近で荒れに荒れ、室蘭〜大洗(千葉県)航路は危険であると、フェリ-会社から連絡を受けた。そこで、予定を変更し、函館港から青森に渡り、陸路東京に向かうことにした。地図を見てもらえるといいのだけれど、函館〜青森間の津軽海峡は意外と荒天に強い地形になっている。出航してしばらくは函館山の影になりその後海峡に出るものの、すぐにハンマ-のような下北半島の影に入る。そして、しばらくすると西側に津軽半島が現れ、東西を陸にはさまれた陸奥湾を進むことになり、ここまでくると船体はほとんど揺れなくなる。これに対して、室蘭〜大洗の航路はさえぎるものは何もない大平洋を進んでいく。これは揺れるぞ!判断し、船酔いが嫌いなぼくは、青森に渡り、陸路を行くことにした。
 

 夕刻6時、フェリ-はすでに真っ暗になった函館港を出航した。少しずつ、街の明かりが遠ざかり、船下をのぞくと波立った真黒な海だけがどこまでも広がっていた。
 恐かった。魚達はあんなに小さな体でこんなに恐そうに見える海の中で暮らしている。世界は一匹の魚にとって、あまりに大きい存在だ。

 そんなことを思い思いしているうちに、フェリ-は海峡に出たのだろう、少し揺れ始めた。もうよくは見えない夜の海峡を眺めながら、ぼくは荒れる海峡を思った。本州と北海道を隔てる津軽海峡。かつてあった氷河期にもこの海峡は陸続きにはならず、ここで動植物の移動を妨げた。そして、現在を生きる多くの人々にも少なからず影響を与えているのだろう。中でも本州に故郷を持ち、北海道に移り住んだ人たちの心への影響は大きいだろう。同じくぼくも、海峡を渡る度に複雑な思いが胸を駆け巡る。
 

 青森港に着いたのは夜も9時近くで、冬だというのに南からの低気圧の影響で激しく雨が降っていた。ぼくたちは土砂降りの中、一路東京を目指して夜の東北をひたすら南下した。国道7号線〜282号線、盛岡から国道4号線を行く。その晩は青森を出て300km地点、仙台の少し手前の、湿原で泊まる。
 


■東京には寝るところがない。

 朝起きると、仙台手前の湿原は春のように暖かかった。そこから初めて見る栗駒山の姿は勇壮だった。夜10時過ぎ、やっとのことで東京に着いた。上野公園に寝るところがある、と聞いていたので上野公園に行ったが、どこにも寝られるところはなかった。そして色々探し回ったが、どこもかしこも利用され尽くされていて、一台車を止めて一晩眠る場所さえなかなか見つからなかった。最後に、荒川沿いでなんとか車一台止められるだけのスペ-スを見い出した。上空には何層にも高速道路が折り重なって伸び、トラックがひっきりなしに行き交っていて少々うるさかったが、ぜいたくも言えない。早速、御飯を炊いて魚とサヤエンドウを焼いて食べた。こうして東京の空の下、初めて眠った。
 

■浜野顕微鏡店へ。

次の朝は朝日がきれいだった。ぼくらは日本で唯一の顕微鏡専門店である浜野顕微鏡店に向かった。浜野顕微鏡店は東京大学の赤門の前にある。今回、東京に来た最大の目的は顕微鏡を購入することにあった。色々説明を受け、一台の顕微鏡に決めるのに7時間かかった。電話連絡時に、浜野さんという人物がかなりの好人物だという印象を受けていたが、実際には予想以上だった。なにせ、一人の客につきっきりで7時間つき合い、懇切丁寧な説明をし、結局中古のオリンパスのFH型にしろと、アドバイスしてくれる。最初、ぼくが購入しようとしていた顕微鏡はオリンパスのBH-2という中古でも35万円もする顕微鏡だった。
 しかし、彼は顕微鏡の原理を説明し、その照明方法であるケーラー照明を理解したら、そんな高価な顕微鏡は必要はない、むしろ、昔のFH型の方が汎用性があって優れている、とくる。顕微鏡初心者のぼくでも少しは納得できて、FH型を購入した。

 対物レンズ抜きで11万円だった。 顕微鏡本体だけで35万円は覚悟していたので、それが11万円で済んだ心の余裕は大きかった。しかも、これで撮影することができる……。念願の顕微鏡撮影システムが手に入った。とりあえず対物レンズは今持っているアクロマート(色収差のたくさん残っている一般の対物レンズ)にして、どうしても写らないようだったら考えることにした。
 予算的に余裕ができたので簡易的なミクロトームの機械まで購入できた。ミクロトームというのは切片を薄く切る機械で大学にあるような高級なミクロトームではないが、熟練すればこれでも結構薄く切れるようになるという。中古で3万円だった。大学には数百万円もするミクロトームまであって、これだと誰がやってもかなり薄い切片が切れるという。
 この値段の差を埋めるのは「熟練した腕ですよ」と浜野さんは言う。まあ、ぼくの場合、カミソリでやろうと考えていただけに、「あるとなしでは大違い」と内心思っていた。 
 ついでに、慶ちゃんまで顕微鏡を買った。オリンパスのGKという顕微鏡で、2万円だった。単眼鏡筒で、メカニカルステージも何もついていないが、つくりは頑強で、質感も高く、精密に造られた微動の動きは見事だった。形は顕微鏡の原形のような形で、小さい子供達が買ってもらうようなのとよく似ていたが、それらとはできが違うということが、すぐに分かった。アクロマートの対物レンズもおまけで3本もついて来た。これも買えば2万円はする。対物レンズにおまけで顕微鏡がついて来たとも考えられる。う〜んしかし、ほれぼれするスタイル、質感の顕微鏡である。昔の物はやはりできが違うんだなあ。
 

■埼玉のCATという中古望遠鏡店へ

 こうして、2台の顕微鏡とミクロトームを手にしたぼくたちは浜野さん夫妻と別れ、残りの時間、東京の望遠鏡店をはしごして歩いた。初めてみる、望遠鏡店は想像以上に小さいものばかりだった。翌日は東京の中古カメラ店をはしごした。その途上、浅草の雷門を初めて見た。浅草はいいとこだなあ、というのがなんとなく伝わって来た。その日、最後に埼玉のCATという中古望遠鏡店に行った。そこでは、新旧、2台のスペースボーイという名前の小さな赤道儀が売られていた。カタログで見ていた時は、何これ!と、思っていたのだけれど、実際に見ると、すごくいい。早速、慶ちゃんの赤道儀という名目で、購入することにした。この、スペースボーイという赤道儀は、小さく軽い赤道儀であるうえに、二つに分解して使えるのが大きな特徴で、分解すればカメラの三脚に取り付けて使うことができる。しかも、この状態だと、片手でひょいと持てるほど軽い。う〜ん予定外だけれども、いいものを手に入れたと、満面笑顔の二人だった。もし、このスペースボーイが、300mmレンズくらいまで写せるものだったら、すばらしいことになる。海外に赤道儀を持っていく時、小さくて邪魔にならない赤道儀が欲しかったからだ。早速帰ったら、精度実験をしないと……、と心配半分、期待半分、意気揚々CATを後にし、どこまでも続いていく夜の埼玉をひた走りに走って、長野にむかった。
 

■神戸へ

 長野では、非常によく晴れて、八ヶ岳が美しかったので、これを夜まで写し、その夜は長野県の清内路村というところで眠った。清内路村というところは以前にも来たことがあって、おいしいわき水が国道沿いで手に入る。30リットルの水をくませてもらい、三重県津市に寄ってから神戸にむかった。神戸では顕微鏡関連の本や資料を捜しまわったり、輸入楽器の店を回ったり、函館では見ることができない4×5カメラ等の大型カメラを実際に見て回った。

 また、大阪ではマミヤ645用の200mmF2.8APOという色収差の少ないレンズを買った。ぼくにとっては初めて買う本格的なアポクロマートのレンズで、定価20万円のレンズだ。どのくらいの差が出るものなのか、これから使ってみたいと思ってます。
 

 帰りは、大平洋岸に沿って走り、東京にむかった。途中、清水の三保の松原に泊まった。三保の松原からは富士山がきれいに見えた。そこから東京まで富士山を巻くように進み、始終富士山を見ることができた。東京では行きに寄れなかった、輸入地図専門店、マップハウスに寄った。RV社のドイツ20万分の一の地図を買おうとすると、RV社は去年倒産したから手に入らないと言われた。どうしようもなかった。日本で手に入れることができる外国の地図には気に入るものがない。その中でも比較的見やすかったRV社がなくなったのは衝撃的だった。「ぼくたちが気に入るものって少数派なのかなあ」という思いを強めながら、マップハウスを後にした。新宿で少し用事を足してから東京を脱出し、国道6号線をひた走って、千葉県大洗にむかった。大洗は水戸市のすぐ側にある。途中、道が混んでいて大洗に着いたのは出航20分前だった。

 慶ちゃんに切符を買ってもらっている間に、猛烈な勢いで御飯を炊いた。言うまでもない、火力全開、うまい御飯ではなく、食べることができるだけましの御飯を炊いた。炊いていると、催促の乗務員がぼくたちの所まで車でやって来た。お忙しいところ申し訳ないが、早く乗ってくれ、とお願いされた。

 飯合から吹き出る御飯の湯気を見て彼はどう思ったのだろう、険しい表情が一瞬にして和らいだ。このせっぱ詰まった時に、とあきれたのか、それとも御飯の炊けるいい匂いをかいだからなのか、何にしろ、ぼくたちが乗り込んですぐ、船は出航した。

 帰りのフェリーは全く揺れることはなく、快適な船旅だった。30日間、3000km。未来をくっきりとみすえるための旅は、 2食つきすべりこみセーフで終わった。いい旅だった。