2002年4月、ぼくはずっと写真館の中で過ごした。つまり、春を遠くに見ながら過ごした。遠くに微かに見える春といえば、ほんの少し開かれた窓から見える写真館の庭の春だけだった。
何をしていたかというと、丘のうえの小さな写真館のホームページを創っていた。
ホームページというのはインターネット上で公開する、丘のうえの小さな写真館についての概略のようなものだ。
最初、ぼくは簡単に考えていた。しかし、実際は大変なことだった。想像を遥かに越えていた。文字どおり、一からの出発だった。
ホームページ作成に関わる根幹になるソフトは「photo shop(フォトショップ)」というソフトだ。次にホームページを組み立てるソフトは「GOLIVE(ゴーライブ)」というソフト。
この二つのソフトを使ってホームページを創る。ぼくはどちらもほとんど使ったことがない。ホームページを創りながら各ソフトの使い方を覚えていくという感じ。
初めから基礎的なことで随分路頭に迷った。そして、後から考えると、とんでもない遠回りをしていることに気が付く。「こうしてやってれば、あと、2週間は短縮できたなあ!」と思うことが何ケ所もあった。また、写真フィルムをコンピューターに取り込むスキャナという機械の性能不足も痛感した。
誇大な宣伝文句の書かれたエプソンのスキャナにまんまとだまされた。エプソンにだまされるのはプリンターに続いてこれで2度目である。もう僕は二度とエプソンのものは買わない。
調べてみるとアグファのスキャナがいいことが分かった。欲しいと思ったが、すでに製造中止されている。そのために、だましだまし、エプソンの安物のスキャナで最後まで通した。
エプソンのスキャナで入力したデータは全く階調もなく、濃度レンジもなく、全くと言っていいほど使い物になるようなものではなかった。よくこんなもんを大きな顔をして売っているものだと、感心させられる。
いわばオモチャである。そのくせ、値段と宣伝文句だけは一人前である。エプソンというのはそういうメーカーである。まあ、日本にはよくあるたぐいのメーカーと言えるだろう。
コンピューターに保存されたデータの容量は20000MBを越えたが、後にこのデータは全てドイツハイデルベルグ社製のサファイアウルトラというスキャナで入力しなおすことになった。エプソンのおかげで、丸三週間という貴重な時間が台無しになってしまったのである。
このような感じで、ホームページが完成するまでに、何と一ヶ月半かかった。その間、外に出ることはほとんどなく、全く画面の前に座ったままだった。
生活もずれにずれ、朝8時頃眠るような生活に陥ってしまった。いったんこうなるとなかなか抜けだせない。寝室には黒いカーテンをひいて何とか暗くして眠ろうとしたが、完全ではなかった。つらかった。
特に、季節のスピードについていけないことが寂しかった。どんどん春がぼくの目の前を通り過ぎていった。
「カタクリの花咲いたぞ!」「水芭蕉はほんのちょっと咲きかけた」「こぶしは満開だ」などといった自然の動きが刻々と、報告された。
しかし、その反面で、ぼくは身動きひとつ、まばたきひとつできなかった。一日平均、15時間は画面に向ってなんとか追いつこうともがいたが、いつも空回りだった。
そして、どんどん疲れ、精神的に萎縮していった。そんな中にあって、丘のうえの小さな写真館の小さな庭で起こる、小さな春の動きだけが心の支えだった。
庭の春は福寿草が二輪咲いたこと、クリスマスローズが幾本か咲いたこと、そして、クロッカスが数珠つなぎになって咲いたことで始まった。
樹木だと、ナナカマドが一番早く葉を吹き出した。
その反面、多くの樹木が小さな葉を開いた今頃、そう、4月も終わり頃、ブナとカエデはやっと芽を突き出し始めたところ。
野山では早い方のブナやカエデなのに、果樹や庭の樹よりは遅れる。果樹では一番遅くに、プルーン(西洋スモモ)。4月下旬、ようやく芽を突き出してきた。ちょうど同じ頃、同じスモモの日本スモモは白くて小さな花を枝一杯につけている。
スモモの木はプルーンにしろ、日本スモモにしろどの木もたいへんいい樹形になって、眼の保養になる。
特に新緑のすぐ後に白く小さな花が咲いた時は、色彩も薄く抜けるような緑白色だ。
しかし、いずれにしろ果樹は最低2本ないと果実がならない。自分の花粉では、受粉できないのだ。
これは近親交配で遺伝子が弱るのを防ぐことが主な原因らしい。
自家結実性の高いプルーンでさえ2本ないと実を結ばないことが丘のうえの小さな写真館の庭で確かめられている。
ぼくはこのペアーで実をならすという、果樹のあり方が好きだ。まるで、一方が男の子でもう一方が女の子のように見えてくるのはぼくだけだろうか?スモモなどは特にそのように見える。スモモは品種間の交配親和性が異なるのだ。そのため、違った枝振りに成長する。その姿の違いが、男の子と女の子をぼくに連想させる。
このような春の訪れと共に、やはり最近、丘のうえの小さな写真館の回りでは、小鳥が多い。慶ちゃんが桜の木にかけていた巣箱がキツツキのドラミングの道具にされている。
風で倒れ、すっかり上をむいてしまった巣箱で「これじゃあ小鳥は住めないねえ」とある友人に馬鹿にされた巣箱が、なんとキツツキ(赤ゲラ)のオスの縄張り宣言に使われている。決まって朝6時くらいから、つつき始める。
白樺にかけた巣箱はスズメのつがいが入った。ウグイスもあまり声を聞かないうちから、回りをうろついている。冬の間はカケスという派手な大きな鳥がうろうろしていた。ぼくは小鳥には明るくないが、こんなに回り中に小鳥がいるというなら、興味もわいてくる。もうすぐ、丘のうえの小さな写真館の回りの樹木が一年で一番美しい時をむかえる。本当は、秋も美しくしたいと考えているのだけれど、カエデの木の研究が今一歩進まないので、棚上げになっている。
このような庭の樹木や小鳥の観察くらいで過ぎてしまおうとしている季節が、もったいなくて自分のふがいなさをののしってしまう。
しかし、ホームページで扱うのが、季節の写真でよかった。空想が翼を持って舞い上がる。そして、この春一度も見ていない、秘密の谷間でぼくの心を誘ってくれる。
秘密の谷間の斜面には、一面のお花畑がある。そして谷底を一本の小さな沢が水の流れをつくり、微かに差し込むお日様の光にほんの一瞬のキラメキを放つ。そして、す〜っと足を滑らして大地がすりむかれると、そこには真黒な暖かい地面が顔をだし、ほのかに草と土の匂いが辺りに充満する。
むせかえるような匂い。ちょっとかび臭いやさしい香り。ぼくはこの喜びが恐らく北国の最も北国らしい世界だと確信している。
すべてがこのお花畑から始まるように思える。今月の作品は、そんなお花畑から作品二つ。時期をずらして二つの花。カタクリとシラネアオイ。カタクリは4月下旬。シラネアオイは5月上旬に咲く。
シラネアオイはカタクリよりずっと大型の花。シラネアオイが咲き始める頃には樹木の葉もかなり茂って、緑が濃くなってくる。
そして、これを前後して、標高の高い所で残雪の中、ブナが葉を茂らせる。これがもっと北に行くと、白樺になるんだろうなあ、と思い思いする。残雪の中で芽吹く樹木は美しい。
この残雪と樹木の芽吹きの重なりは標高の高い所、緯度の高い所に行けば行くほど、起こりやすい。
これは寒い所ほど、季節が集約され、一度にやってくるからだ。これを実際に体験すると、不思議な気持ちになれる。
季節は順番にやってこない。一度にやってきて、一度に去っていく。
ぼくは季節が押し寄せてくることを、北海道で学んだが、もっと極端な季節の到来を感じたいという衝動が年々強まってくる。例えば、平地で残雪した大地から白樺が芽吹いている世界に行きたい。そんな世界の光景を東山魁夷画伯の絵で拝見したことがある。ラルハンゲラ?の春だっけ?ちょっと記憶してないんですが、いい感じの作品です。
さて、北海道は5月、6月、7月と、ハイシーズンの到来です。たった3ヶ月ですが、精一杯大切に過ごしたいと思います。皆さんもお体に気を配りながら、素敵な季節に出会って下さいね。それではまた。
p.s. 丘のうえの小さな写真館のホームページのURL(インターネット上でのホームページの住所)が決まりました。
http://ponchan.2.hotspace.jp です。もしお時間ありましたら、御覧下さい。よろしくお願いします。できたら感想と注意点も教えて下さい。多分、ミスいっぱいあると思うので………。よろしく!!
追伸)
5月に入ってから、とっても良く晴れるので、望遠鏡を持ち出して星を見る機会が増えます。
先日も、高橋製作所のFCT-100という10cm屈折望遠鏡で、写真館の近くで春の宇宙をのぞいていました。
この10cm屈折望遠鏡は10cmというのに定価で50万円近くする望遠鏡です。しかし、所詮口径10cmしかないのだから、たいして見えないだろうと、思っていました。ところがどっこいこれが良く見えるんです。
「高いんだから見えないと困るんだよね」なんていう無粋なことは言いっこなしです。まずは、ヘルクレス座にあるM13を見た時には感動しました。M13は球状星団で、銀河系をとりまくように分布した恒星の大集団です。
性能が悪い望遠鏡で見ると、これが恒星に分解することはなく、単なる淡い雲のようにしか見えません。
しかし、FCT-100で見た、M13は真っ暗な宇宙を背景に、無数の恒星がかすかに明滅を繰り返している様子が見ることができました。
しかし、直視しても見ることはできません。人の眼には盲点があって、盲点上では光を感じることができないのです。微かな光を感じるためには、うまく盲点以外のところに光を集めないといけません。やりかたは簡単で、ちらりちらりと見るのです。
そうしないと、これ以上ないくらいの微かな世界を見ることはできないのです。
M13は北天では一番大きな球状星団なので、空のいい所では肉眼でも恒星のように見ることができます。がこれをまともな望遠鏡で見ると、無数の恒星の集まりに分解して見えるようになります。
FCT-100(10cm屈折望遠鏡)というのは、そのレンズ構成が「トリプレットフローライト」という3枚玉(レンズが3枚の望遠鏡)の望遠鏡で、そのまん中のレンズがホタル石の結晶を使っているものです。
現在の光学理論の中で、ホタル石は最高のレンズであって、これ以上のレンズは存在しないのです。
小学校では凸レンズ一枚でピントがくることを作図なんかして学びますが、それはまっかな嘘で、ピントをこさせるには、ホタル石を使ったリ、凸レンズや凹レンズを何枚も組み合わせてやらないといけません。
そのために、望遠鏡は高価になってしまいます。なにせ、50万円の定価の内、30万円くらいはレンズの値段だろうと、予想できるほどです。
これは、ホタル石のレンズを成形することの難しさにも起因すると言われます。そんなフローライトで見ると、すごくコントラストが高いのが印象的です。つまり、非常に微かな宇宙を見るのに最も適しているといえます。
それと、星が丸く見えます。外気に馴染むのに時間がかかるものの馴染んでしまうと、星が丸く見えるのです。M13の前に大熊座のM81、82という銀河を見ました。この二つはハの字状に二つの銀河が並んで見えるのですが、フローライトで見る銀河は、渦を巻いている様子が良く見えます。コントラストがいいのです。
その他、乙女座や髪の毛座にある銀河も見てみました。有名なM64という黒眼銀河を見たのですが、空が明るくて、あまり見えませんでした。光害です。
あと、串ダンゴ星雲という愛称で親しまれるNGC4565を見たのですが、ほんの微かにしか見えません。これも光害のせいです。
最後に惑星状星雲である、こと座のM57を見ました。これはびっくりする程よく見えました。リング状に見えるわけですが、くっきりとリングに見えるのです。慶ちゃんなどは、ちょっとピンクがかって見えるなんて言います。ぼくには見えませんでしたが、もしかしたら人間の色を感じる能力の限界あたりの話かもしれません。
望遠鏡を見る時、近眼だとか、遠視といった視力検査での結果はあまり意味がありません。それよりも、人の目の細胞がどれだけ微妙な色彩を感じることができるか、とか微かな光量の違い(コントラスト)をどれほど見分けることができるかといった、違った能力が試されることになります。
この手助けをしてくれるのが性能のいい望遠鏡、つまり、ピントの合う望遠鏡と言うことになるんでしょう。今から、23.5cmのシュッミトカセグレン望遠鏡と10cmフローライト望遠鏡と16cmニュートン反射望遠鏡とを見比べに行ってきます。
望遠鏡は口径が大きいほどその性能は高いのですが、口径の大きさだけで、一概にその性能の善し悪しは語れないこと、そして、それを見る人間の感性の問題もあると言うことを忘れることはできません。つまり、ぼくが10cmフローライトが良く見える!といっても、この見え方が嫌いな人だっているわけです。この自分の気に入った見え方をする望遠鏡に出会った人は幸せです。鏡には木辺鏡とか、苗村鏡といった磨いた人の名前がつきます。見る側には誰が磨いた鏡がいいのか、相性があるのでしょう。
もし市販されているどの鏡も気に入らなかったら、その時は自分で磨くのかもしれません。
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