この世界にはただひとつの、また単一の時間が流れているに過ぎない。
しかし、その時間が多様な振幅を持っていることが分かった時、 ほっと胸をなでおろす。しかも、それが豊かであり、また、懸命であったりすれば自己もまた勇気を感じたり、希望に胸を膨らませたりする。
この春、ぼくは今までになく、平穏な時間を過ごしていた。その中で、じっくり自分と向き合い、季節や時間のことを静観することができた。
今回の作品はそんな中から、2作品。
一枚は、春に咲く珍しいリンドウである、フデリンドウ。
もう一枚は、球状星団M13に接近する池谷彗星。
この2作品は、どちらも同じ時期に同じ北海道南部で撮影したもの。
フデリンドウは非常に小さいリンドウで、雑木林や森の中にまるで隠れるように咲いている。その小ささといったら、立ったままでは見えないほどだ。もちろん、フデリンドウよりも小さな生き物はたくさんいて、果ては、ウイルスまたその果ては、素粒子ということになる。
そんな小さな生き物や花のけなげさから見ると、池谷彗星の動きは非常に大胆に見える。太陽系の果てからある時突然現れて、ぱっと雄大な尾を宇宙空間にたなびかせ、また太陽系の果てに戻っていく。しかし、目線を宇宙から落としてみると、池谷彗星の動きはフデリンドウと同じように見えないほど小さい。ということは、我々の生きる世界というのは、想像以上に小さく、また大きい。
では、人間の大きさとはどのくらいなのだろうか?ぼくは、人のからだ自体はそんなに大きいものとは思わない。しかし、人には科学があり、更に空想力といった力が備わっている。そして、人の科学的な空想力は小鳥が羽毛を膨らませて大きく見えるように、一人の人間を物理的な空間から解き放たせ、人を自由にする。
つまり、自由とは、広く大きな世界で生きることなのだ、という思いを強める。人だけが生きる街の中や家の中に閉じこもっていると、感覚が麻痺してしまい、人が本来生きる目的とするべき方向を見失って、広大な時間の中でおぼれてしまう。専門化され細分化された仕事さえこなしていれば、まずよしとされる風潮に甘んじたり、子供を育てることで自分の人生をごまかしたり、自分の仕事にほこりを持てる人はまだいいがいやいや仕事をこなしていたり、その仕事の中で楽を覚えてしまった人はつらいことだろう。人はそんな予期しない落とし穴が人生のまん中に用意されているとは知らなかっただろう。このように麻痺してしまうと、なかなか自由への突破口は開かれない。
「自由への突破口」なんとも抽象的な言い方かもしれないが、このぼくもまた、なかなかこの突破口がなくて毎日焦っている。そして、そんな自分を励ましてくれるのは、側にいる人なのだが、自分とは違った性質の人の活発な行動がバネになることがある。人は一人で生きられない。特に一人で自由に向って生きるなんて不可能だと思える。一人だと、とんだ深みにはまって、出てこれなくなったりする。一人が二人、二人が四人と、想いを重ねあいながら生きていければ幸せなんだろう。
少し、作品について説明します。
フデリンドウの方は、問題ないと思いますが、撮影場所は大沼。駒ヶ岳の麓の沼の合間に広がるミズナラが優先する森の中。このあたりのミズナラは巨木がなく、ひょろひょろのミズナラばかり。森自体がその歴史は浅い。どうせ、駒ヶ岳の噴火の度に、いったん命を絶やさねばならない運命を担った森なのだろう。そんな危機をよそに、幸せそうにリンドウが寄り添って咲いている。秋に咲くリンドウのような寂寥感はなく、春の木漏れ日の中、ひっそりとお日様の光の中に咲くことを楽しんでいるように見える。次に、二枚目の球状星団M13に近づいた、池谷彗星。
まず、この作品は函館から北へ120km北上した所の黒松内町の郊外での撮影。焦点距離800mm、F6.4、kodak E200を+1.5段増感してISO600で撮影。露出時間は40分。というのがデーターです。まず、この作品の面白い所は、彗星が恒星に対して40分の間に動いているということです。そして、ほんのかすかですが尾をひいているのが分かります。また、この彗星から、約3度ほど離れたところに見えているのが、球状星団M13。M13といいますとヘルクレス座にあり、光度6.4等、大きさ23′距離2.1万光年のところにある北天で一番大きな球状星団です。
全天で一番大きなのは、南半球でしか見られないω星団。球状星団というのは、我らが銀河系を球状に分布しながらとりまく恒星の大集団で、無数の恒星が一点に集中して見られるのが特徴。作品では銀河系の星の中にあるように見えますが、実際は銀河系の外にあるわけです。銀河系の外といってもアンドロメダや他の銀河のように遥か遠くというわけではなく、我らが銀河系のすぐ側に分布しています。このことは、2.1万光年という距離を見ると何となく分かります。アンドロメダまでは230万光年!です。北天一でも、球状星団を写すとなると、とても小さくて、800mm程度だとこの大きさにしか写せません。そして、今までは、色収差という屈折望遠鏡の天敵があったため、写すことさえ難しかったものです。
(色収差がある望遠鏡で写すと、分解能が上がらず、星に分解しないで、単なる白い塊に写ってしまうわけです。)それが、最近になって、ようやく写せるようになったわけです。他の球状星団も射手座あたりを中心にあるにはあるんですが、かなり小さくて、驚いてしまいます。写真に写せないのは、あきらめつくとこあるんですが、望遠鏡を通して眼でも星に分解して見えてこないのは寂しいことです。もちろんM13は完全に無数の星に分解して、各々の星が暗い夜空を背景に明滅を繰り返すのがわかるのですが、他の小さい球状星団はかなり手ごわいものです。例えば同じヘルクレス座にM92という球状星団がありますが、視直径12′距離2.6万光年です。これでも、大物の方に入りますが、すでに、M13の大きさの1/4しかありません。射手座にある、球状星団M54、70、69などの球状星団はその視直径3′とか2′しかありません。M13の1/100の大きさです。小さいですね。
この大きさのものをM13程度に見るには大砲のような望遠鏡が必要になります。給料の何ヶ月分かをはたいて買った望遠鏡を使っても、我々の望遠鏡では球状星団でもほんの一部しか楽しめないのです。宇宙は遠く、また、かすかです。そんな宇宙をぼくたちは直径7mmにしかならない二つの眼で、眺めます。満天の星空だ!すご〜い。と思っても、せいぜい100光年くらい先までの星しか見えていないのです。銀河系でさえ、直径10万光年、1000億の星があるから、もっと銀河系は広いのです。見えている星の100倍も1000倍も広いのです。逆に言うと、1/1000しか見えていないんですね。
おまけに都会に行くと、街の光汚染で一等星か二等星くらいしか見えません。もうこれでは、ここが宇宙なのだという感覚さえ麻痺してなくなってしまいます。その上、昼は太陽があまりに近くにあって、まるで、宇宙の基本が昼であるような錯覚に陥ってしまいます。しかし、これは間違いで、宇宙は夜であることが基本なわけです。つまり闇が先にあって光ができた。闇の中に輝くのがぼくたちの正真正銘の人生なのだ!と大きな声で言いたいのです。
次の号と一緒に送る写真館通信ではもう少し詳しく、宇宙について共に考えて見ましょう!
その宇宙について興味のおありの方は、カールセーガン著『コスモス』という著作を是非お読み下さい。科学と文学を足して2で割った感じの本で、分かりやすい本です。カールセーガン博士はもうお亡くなりになりましたが、彼の御本は永遠不滅です!
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