今月の作品は、昨年の7月、北大雪への小旅行からの作品を紹介します。
一枚目のラベンダーの作品は西興部村(にしおこっぺむら)での撮影で、もう一枚のノコギリ草はその側の滝上町での撮影です。
どうして、この7月に去年の作品を紹介しなくてはならないのか、不本意なのですが、今年ばかりは体から力が湧いてきません。
お日様、お星様を見なくなってからもう2ヶ月になろうとしているのです。去年も同じくらい晴れませんでしたし、その前もその前も……晴れてくれません。7月が晴れなくなってからもう何年にもなります。今までは、そんな7月のわずか数分の晴れた瞬間!を撮影してきたのですが、今年はその瞬間さえない……。何ということだろう。
北海道の冬は長く寒く、いつも重苦しい雲に覆われた日が続くのですが、その代わり短くとも美しくさわやかな夏があることに心がおどりました。そして、冬には冬眠し、冬眠中に来年の夏はどのように過ごそうかとわくわくしながら計画を立てたりします。そして、短い夏が過ぎた時、北海道で過ごした夏の思い出は心に強く刻まれるものになっていったのです。
それが、ここ数年、冬と同様全く晴れず、毎日毎日、重苦しい雲に覆われた夏の日々がとうとうと過ぎていくのです。
アラスカの夏は北海道の夏よりもっと短く、人々は夏になると会うことを止めるといいます。人と会うのは、夏が終わってからで十分、時間はたっぷりあるというのが、その根底にあります。その考え方にぼくは心底共感します。なにせ、アラスカの場合、8月に入れば渡り鳥たちは皆、南に帰り、8月も終わる頃、原野は紅葉し山は真っ白になるのですから。生命が息を吹き返す時間は5月、6月、7月しかありません。夏の時間は貴重です。
このことは北海道でも似た気持ちになります。「5月、6月、7月」この3ヶ月が北海道にとっても、ゴールデンマンスです。8月に入れば、北海道でも夏が終わる気配が漂ってきます。しかし、今年はこのゴールデンマンスの三ヶ月の全てを僕は失ってしまいました。毎日、写真館のかすかに開いた窓から見える庭の風景だけが僕の見る全ての風景なのです。そして、毎日、ふって湧いてくる仕事をこなしているうちに、貴重な夏の残り時間は消えていこうとしますし、何もできないイライラと身体の衰えを実感してきます。
ニュースを聞いていると、こんなに晴れないのに、畑では麦が収穫されたとか、お米は例年並の収量だとか、聞きます。農家の人には申しわけないが、現代の作物にはお日様はいらないのだろうか?!どうして、お日様がなくて収穫をあげられるのだろうか?写真家の畑では、この夏ひと粒の収穫もない。同じく、写真館の庭のじゃがいもはついに枯れてしまった。どうして、他の畑のじゃがいもは収穫されるのだろう?何か不自然さを感じるのは僕だけだろうか?
さて、話を作品のことに戻そう。去年の7月も晴れることはなく、ほんの数分間の晴れをついて僕は撮影をしていた。そして、その貴重な晴れの時間以外は、比較的時間がとれるので、心の中は穏やかになる。矛盾するかも知れないが、何気ない旅に誘ってくれるのは、コントラストのある強い日差しではなく、普段の何気ない空気である。旅先の日常とでもいうのか、晴れの日の極度に緊張した戦闘状態から解放された穏やかな一日のことである。そんな穏やかな一日を旅先で過ごすことは誰にも大切なことで、そんな何も目的がない一日を過ごすために旅に出るのかも知れないととさえ、最近思うことがある。かつては、そんなゆとりはなかった。
ほんの数日間無理矢理あけた限られた時間に、目的の写真を撮って来なければならない、そんなつらい夏を過ごしてきた。そして、慶ちゃんにもつらい夏を辛抱させてきた。行きたくもないのにラベンダー畑に行き、何がなんでも撮って来なければならないわけである。そして、光線状態と雲と人の動きを考慮しての撮影を強いられ、来るべきチャンスを待つ。僕はそんな撮影がいやだった。仕事上どうしても必要なのだが、いやいや撮る写真は例え同じ結果であっても、意味はないとぼくは強く思う。広告に使われている写真たちを見ながらぼくはそんなふうに思う。本当にこの写真は望まれて生まれてきた写真なのだろうか?そんなふうに思うのだ。
星野道夫の本にこんなことが書かれていた。「僕はマッキンレーの山上に舞うオーロラの写真が撮りたくて、厳冬のマッキンレー山に一月間こもろうとしている。誰から頼まれたわけでもない。僕はいったい何をしようとしているのだろうか?」
写真は頼まれて撮ることがあるが、それらは自然界から遠い生活をしている人からの依頼であることが多い。そのためできてくる写真、そして、ポスターやパンフレットはいつもお決まりのものになってしまう。本来は、自然のことをよく知っている人の意見を尊重して制作をするべきなのだろうが、制作者は新しいことをする冒険をおかそうとは決して思わない。このことは制作者と撮影者が異なる場合の矛盾で、写真家は常にこの狭間におかれ、苦しむことになる。しかし、多くの場合、自己を捨てて、制作者が望む写真を撮るようになり、いつしかほんの少し残った余力で自分の作品を創ろうとするのである。このようになった人のことをプロの写真家という場合が多く、制作者の奴隷である。しかし、また制作者は依頼者の奴隷になっている。依頼者とは、企業や自治体であり、多くの場合競争入札がある。このような機構が出来上がっているので、写真家はいつも売れそうな写真を創ることばかりに忙しく働いている。確かに、このような機構に入ることは、写真を写す際の極度の緊張感は必要としないし、仕事的には大変楽なもので、たくさんのお金が割合楽に手に入る。しかし、このような撮影に手を染めてしまったら、知らず知らずのうちに感性やそれを支える技術力は鍛えられて来なくなる。つまり、真剣に自分の内部から聞こえてくる声に耳をかさなくなったり、自分の内面を掘り進んで行こうとしなくなる。どうして、こうなるかというと、いくら自分を掘っていっても、お金になる保証はないからで、ほとんどの写真の場合、撮られたその時から写真家の手から離れているものが多い。
星野さん以上に、僕はこのような機構を拒み続け、頼まれてする仕事はほとんどなくなってきた。余談だろうが、星野道夫が熊に喰われたのはこの「頼まれ仕事」が元になっている。アラスカでの彼の仕事を支えたのは、雑誌やテレビといった日本のメディアからの依頼だった。これは仕方のないことだと思うが、最終的に彼はこのために命を落とすことになる。
彼を襲った熊は餌づけをされていた……、そして日本のテレビ局の人たちと騒ぎながら山小屋で一夜を過ごすことをいやがった。その結果、熊に喰われることになる。
星野さんは人なつっこい性格で、愛らしい写真家だった。人が好きで、人のない風景は意味がない語っているほどである。その星野さんが拒んだのがテレビ局の人たちと過ごす一夜だったのである。星野さんは自然のただなかで酒を飲んでどんちゃん騒ぎをできる人ではない。もっと、真剣に自然と向き合っていた。例えば、彼は銃を持って撮影に行きませんでした。それは、銃を持っている自分の行動が大胆になっていることに気がついたからで、その不自然さゆえに、銃を持たずに撮影を続けています。そして、本当に銃が必要なのは人と熊のナチュラルディスタンスが狂った国立公園の中であるとも言っています。これだけ書けば、星野道夫を殺したのが熊ではないことがお分かりでしょう。星野道夫が死んだのは1996年8月8日。もうすぐ6年になろうとしています。
僕はゲーテのファウストと同様にバイブルとして彼の著作を大事に毎日読んでいるので、今でも側に星野さんがいてくれます。生きているように強く彼の声が響いています。
話はそれましたが、今回お届けする作品なども、頼まれ仕事の産物ではなく、また必勝撮影から生まれた作品でもなく、実に穏やかな気持ちで出会ったラベンダーとノコギリ草の作品です。
これらの作品を写した日、相変わらず曇っており、見渡す限り地平線のかなたまで白い雲に覆われていました。そこで、僕たちは大雪山の撮影をとりやめ、今まで行ったことのない北大雪からオホーツク海方面をドライブすることにします。緊張の糸を緩めた楽しみに出かけたわけです。その途上西興部村あたりでこのラベンダー畑に出会います。人の気配は全くありません。数種類のラベンダーが栽培されています。人を寄せるために植えられた感じですが、人は全く寄らず、虫たちにはラッキーな様子です。西興部村へは名寄から下川町、そして、天北峠を越えてやってきました。天北峠は北見山地を越える峠で、さわやかな雰囲気の峠です。西興部村からはオホーツク海に向わず、進路を南に変えて、滝上町にむかいます。その途上北見山地の南部には氷のトンネルで知られるウエンシリ岳という山があります。僕たちはいまだ行ったことはありませんが、そのあたりの雰囲気はいいですよ!なにかこう、そそられるものがあるのです。
滝上町にはハーブ園があります。観光向けに造られたもので、地味なハーブだけで維持するのは大変そうです。過剰施設ぎみなんですが、無駄な川の工事に多量のお金を捨てるよりはずっとずっといいものです。しかも、このままではこのあたりの町は忘れ去られてしまうから、このような施設ならば、明るい印象がしていいですね。自然や景観を壊しているふうでもありません。滝上町を出れば、のどかな北大雪からオホーツク海にかけての田園風景が素朴でいい感じです。
その後、僕たちは上紋峠を通り、岩尾内湖を経て、夕刻士別市に戻ります。士別市に戻ると嘘のように晴れていて急きょ星の撮影体勢です。ゆるんだ精神にむちを打ちます。しかし、撮影に望めばまた曇ってきます。そして、星の撮影を断念し、大雪山に登る覚悟を決めて大雪に向います。しかし、その途上また晴れてきたので、再び撮影です。もう、振り回されているとしか言い様がありません。撮影を始めても、霧が出てきては、場所を移動したりして霧に追いかけられます。こうなってくると、技術よりも精神力です。何が何でも撮る!という強い意志の世界。この時写した作品が2002年8月のカレンダー『夏の夜空に舞う』です。ものすごく大変ですが、このようなことが自分の自信にもなりますし、思い出として心に強く刻まれるのだと思うのです。
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