の世界
77 夏の終わりから秋へ 2002年9月
夏の終わりから秋へ
 今ちょうど、9月が終わろうとしています。北海道にとって9月はどちらかというと、季節はずれの月。平地ではどこも10月に入らないと秋の気配が本格化しない。しかし、9月は8月とは明らかに違っている。8月の終わり頃から、その気配は用意されているのだが、9月になると、夏でも秋でもない、いわゆる『季節はずれ』の雰囲気が漂い始める。この9月みたいな頃を晩夏とか、初夏とか言うのだろうけれど、いずれにしろこの季節のはざまは心をくすぐってくれる光景と出会える季節である。にもかかわらず、軽んじられる傾向があるのはどうしてだろうか?それでも、分かりやすいのは空の変化だろう。
 

 まず空が高く感じられるようになり、様々な種類の雲が複雑にからみ合うようになる。
次に、野辺の彩りが徐々に変化していく。9月の野辺は夏の濃いくすんだ緑一色の色彩から、ちょっと枯れかかった、薄茶を基調にした色調に変わっていく。そして、菊の花などがそれに彩りをそえるわけだけれど、この物悲しさがなぜかジ〜ンと胸に迫ってくる。僕は別に悲しさが好きではないので、この風情を物悲しさと表現するのが間違っているんだろう。何と言う言葉が適当なのだろうか。
 

 かの前田真三先生もよくこの9月の風景を撮影されている。その中にノコンギクがひとむら草むらに咲いている作品があるけれど、その作品を見る度に、いい写真だなあ!とまじまじと見入ってしまう。他に、青森の浜辺で撮影された野菊の写真などもあるけれど、前田先生のお気持ちがしんしんと伝わってくる。
 

 僕も、及ばずながら草むらに咲くノコンギクなどを撮るが、なぜか気に入った作品が未だにつくれない。これは何年も前から、9月になると、毎年制作に追われてどこにも撮影に出れなくなり、季節から遠ざかることが原因だということもよくわかっている。風景写真をやる以上、季節にすき間をつくることは、タブーだということはわかっているのだけれど、長期に渡っての制作は、僕を完全に季節から遠ざけてしまう。そして制作が終わっても、季節の中に復帰するということは、これまた結構難しい。写真撮ること、ピアノをひくこと…何でもそうだけれど、息をすることをやめてしまったら死んでしまうのと同じで、ほんのひとときも途絶えることができない。とすれば「息の仕方」というものが大事になってくるわけだけれど、これがなかなかうまくいかない。だけど、この「息つぎ」を間違えると、本当に精神的に死んでしまうので、慎重にしないといけない。
 

 9月の風景を見ていると、僕はそんな現実的なことを考える一方で、この息つぎをうまくとって、必ずやこの季節外れの季節を「心ゆくまで味わってやる」という思いを深めていく。
 

 もし、30年風景をやってきたという写真家がいたとする。でも、もし彼が季節にすき間を開けるようなことがあったら、開けた何倍もの時間を割引かなければならないだろう。また、風景写真家の中には、緯度を利用して同じ季節をずっと撮っていく人たちがいる。例えば、桜や紅葉なのだけれど、彼等は実績をあげるためにこういうトリックを使う。また、季節を越えて、例えば鳥なら鳥、キノコならキノコという専門的な撮り方をしていく人も多い。だがしかし、僕はそのような撮り方を、いつの頃からかしなくなった。なぜだろうか?それはおそらく、季節の流れには順番があって、その流れの秩序が大事だと思うようになったからだと思う。そしてそんなことができるのも誰からも風景の撮り方の注文を受けないことも、原因だと思う。それで、今まで随分悔しい思いをしてきた。例えば、近くに大沼国定公園があるけれど、ここのパンフレットをつくろうとしたとき、僕の写真だと今までのイメージと違うから採用されなかったり、函館でも僕の写真はパンフレット等に採用されたためしがない。それは、特にイメージが変わることが問題らしい。僕が写真を撮っていく場合、必ずそこには物語が先にある。物語という流れなしに写真を撮ることはほとんどない。その僕自身のつくる物語にそった写真は、従来とは違うということで、採用にはならない。このことは大いに生活を圧迫する。しかし、年々、ますます幾百もの物語が心の中に浮かんできて、その物語に曲をつけるような気持ちで撮影をしていく。音楽で言うと作曲に近い。そして、ある程度の準備ができたら、その物語を完成させることに時間はかからない。そんな物語が未完のまま、フィルム室の中で今は静かに眠っている。さて、今月の作品は2枚。9月の北海道を代表する空と野辺の風景。代表するといったけれど、9月という季節にはもっともっと多様な表情がある。先ほども話したように僕は桜ばかり追って季節を逆のぼったり、キノコや鳥ばかりを撮ることはしない。自分の目の前を過ぎていく心地いい風景だけを、まるで酔っ払いのように撮っていく。だから、僕は撮影中、人と接することを極端に嫌う。多分、愛想の悪い奴だと思われることもしばしと思うが、撮影中は勘弁してほしいと言う他ない。この2枚の作品も、そんな物語の一場面として想像してもらえると、とっても嬉しい。そんな9月の2枚の作品です。


追伸1)

この秋、僕が今の丘のうえの小さな写真館に独り移り住んだとき、
真っ先に植えた細い棒っきれのプルーンが豊作だった。あれから9年。去年
はスズメバチにほとんど食べられてしまったけれど、今年はスズメバチも
来ず、甘酸っぱくて、とてもおいしいプルーンがいっぱいなった。
僕は仕事に追われ、プルーンの木を見る暇もなかったが、その分慶ちゃんが
活躍して、庭からもいできては食べさせてくれた。疲れて、興奮して眠れな
い時など、プルーンの甘酸っぱさは、身体にジ〜ンとしみわたる。果物はい
いものです。みなさん、疲れたら季節の果物を食べましょう!


追伸2)

もう一つ、収穫の話題。去年の冬、北海道では栽培できないことから、実家の神戸の玄関先にスダチの木を植えてもらった。それが今年の秋早くも実を結び、5個のスダチが送られてきた。早速、サンマを買ってきて、スダチをかけて食べてみた。するとどうだろう。これがまたうまいのだ。北海道ではサンマには大根おろしをつけて食べる習慣はあっても、スダチをつける習慣はない。それで、市場にいってもスダチはほとんどなく、今まで寂しい思いをしていた。その思いがようやく吹っ切れて、今年の秋サンマにスダチをかけることができたのだ。小さいことだけれど、嬉しかった。

追伸3)先日来、応援する市議会議員さんのパンフレットを造る話し合いで何度も御自宅を訪問していた。その時、玄関前の塀の内側に柿ノ木があった。高さも10mくらいある大きな柿ノ木だ。実はその柿ノ木は市議会議員の人がガキのころ食ったカキの種を捨てたものが発芽して、知らない内に大きくなったらしい。まあその柿ノ木、柿の実がなるといっても、直径2cmくらいのとても柿とは思えないような実がいっぱいなる程度だけれど、またそれがどんくさくていいなあと、思った。ちょっとどんくさいメルヘンのお話です。

追伸4)最近、白玉だんごやみたらし団子に凝っている。白玉だんごはきなこをつけて食べ、みたらし団子は醤油と砂糖をほどよくブレンドしたものに、片栗粉をとき入れる。まあ、それだけだけれど、買ってきたものとは月とスッポン。とってもうまい。十五夜さんの日から癖になったお話でした。

追伸5)

最近、制作の疲れから風邪をひきそうになっている。これで風邪に負けたら、まず、一週間は無駄になってしまう。みなさんは風邪にやられそうになったら、どうしますか?僕は、ハチミツを入れた熱いミルクティーとか濃い番茶をたくさん飲みます。それから、納豆に大量のねぎと卵を加えて食べます。そして、普段より多めに色々な食べ物や果物を採ります。それで、今日は慶ちゃんに甘エビを買ってきてもらいました。甘エビ30匹で150円。身は刺身にして、頭は味噌汁にする。ぼくは、エビを食べながら思った。エビの命をこうして食べてウイルスに負けるはずはないと!口の中で甘味を残しながら融けていくエビを噛みしめながら、そう思った。エビを食べること、生きること。エビの命を無駄にしてはならない。エイエイ、オ〜!