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丘のうえの小さな写真館 北国通信の世界
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第92号 北国通信『2003年ベストの作品』 2003年12月
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●NO1
12月8日から14日までの1週間、札幌のサンピアザで、丘のうえの小さな写真館の十周年記念写真展を開催しました。 この春に続いての記念写真展で、作品点数を増やして少し規模を大きくしようとしました。新しくつくったポストカード32種も実際に見て買ってもらえるということで、なんだか嬉しい。普段、自分の作成する拙いポストカード一覧を見て買ってもらっているので、こうして実際のものを見て買ってもらえることは幸福なことだと思います。さて、92号では、このようなことを含めて、写真展に関したことを少し詳しくお話しさせて下さい。
まず、写真展は昔から何度か開いてきました。札幌のこの場所で何度も写真展を開くようになったのも、今から10年以上前に函館のカメラ店の小さなギャラリーで開いた写真展がきっかけでした。また学生の頃、北大の校内で開いた写真展でも、多くの方から大きな称賛を受けたことがありました。最近は開けないままになっていますが、函館でも何度か開いてきました。しかし、どの写真展でも写真展をきっかけに何かが変わってきました。普段、撮影、制作を繰り返し、あまり人と話さない単調な日々を過ごすだけの自分が、写真展では突然多くの人と話をするようになります。「一年分の会話を一週間でするみたいだね」と冗談で言いますが、半分本当のことだと思います。だから写真展というのは、自分にとり、唯一の社会との接点のような存在になっています。写真展をきっかけに 仕事のことでも、精神的なことでも大きく変化していくのです。
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●NO2
しかし、写真展を開くたびに、僕はいつも自分に不満を感じます。最近特に不満で不満でしょうがありません。 写真展といえば、自分の撮影や制作に一応のめどが立ち、それを多くの人に見ていただくのが本当だと思います。 しかし、最近の写真展は依頼されたものばかりで、自分の意志で開くことがなくなっています。これでは、いい写真展を開けないのも当然というものですね。
ただ、“撮影のめど”なんてことを言っていると、自分の性格から行くと、一生写真展を開けないのではないか?と心配になってしまいます。
こう考えると、いくら撮影のめどが無く、中途半端であっても、強制的に写真展をしていくことは間違っていないとも思えます。でもやはり本来は「撮影のめどを立て、作品集の制作を記念して同時に写真展を開催」ということをしてみたいです。このことは夢のままです。
さて、本来の写真展の性格のことは不満でありながらも、写真展には可能な限りの情熱を傾けます。そしてその結果が公に一週間さらされるわけですが、この写真展では信じられないくらい高い評価を受けることができました。何とも中途半端で十分な吟味もされていない写真展であったにもかかわらず、多くの人から無数の称賛の言葉をいただいてしまい、心境は複雑です。
「甘さ控えめのファンタジーの世界」「前田真三さんのような作品も見受けられるが、あなたの作品は前田真三の世界よりも広がっている。」「ここに展示されている写真と詩の本はありませんか、もしなければ詩の本だけでもいいのですが…」「お伝え下さい。いい詩を読ませていただきました。(僕のことを受付のお兄さんと思ったのでしょう。貞淑なご婦人から)この4つの評価はどれも70代以降の方々からいただいた評価で、今回の写真展は不思議なことに高齢の方々から高い評価をいただきました。
また、僕の大学時代の旧友も駆けつけてくれました。彼に対し「会場がうるさくてごめんね。」と言いましたところ、彼が言うには「会場の静寂にごまかされずに作品を評価できるから、うるさい会場で受けた評価は真評性が高いはず…」とコメントされます。(実際、歌手などが来ていて、隣の人とも話ができない状態でした。)
彼と別れてすぐ、ある若い女性に「騒々しくてごめんね…」と言いましたところ、彼女「遠くに聞こえました」と言ってくれるのです。この言葉は胸にじ〜〜〜んと来ました。タイミングといい、言葉の重みといい、人生史上こんなに心に響いた言葉はありませんでした。彼女からは手焼きのクッキーをいただきました。
旧友とは色々な話をしました。特に僕が熊の生態について「僕は餌だけで熊が季節移動をしているとは思えない。もっと人が考えられないような情緒的なことが関係していると思う。」と言いましたら、彼はすかさず大学時代のことを話してくれました。その話はこうです。
『彼は、貝類の研究をしようとしていました。そしてある海辺で先輩にこの貝の餌について聞いてみました。 一般にこの貝は四角い餌を食べると言われているけど、彼は貝によってこっちの丸い餌が好きなのもいると思う、と先輩に言いました。すると、先輩は「いや、四角い餌だけだ!」と彼を突き放したと言います。その時、彼は やめよう!と考えたそうです。』
この話の内容は「貝にも気持ちがある」ことを大切にしたいという友人の思いなわけです。
みなさんはどう思われますか?
僕は彼と大学時代から「緑の草原と青空を組み合わせを人はどうして綺麗だと感じるのか?」とか「路傍の雑草の心境について」とか様々な会話をしてきました。僕が北大の文連の委員長をしていたとき、学祭のパンフレットの表紙を彼に頼んだことがあります。しかし、できてきた絵には目が入っていなかったので、うかつにも僕が目を書き込んでしまいます。その時、彼は叱責もせずに「ショックだった」と言っただけでしたが、今でも僕はそのことを後悔しています。
このような旧友との話の他にも色々な人との出会いが写真展にはあり、作品の是非はともかく、無数の想いが 交錯していく分岐点として、写真展はそれだけでも大きな意味を含んでいるように見えます。
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12/8〜14まで行われた、丘のうえの小さな写真館十周年記念写真展 ー札幌ー
年の瀬、慌ただしい中、大勢の人が写真展に駆けつけてくれた。
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●NO3
さて、作品ですが、この92号で2003年分の北国通信は〆になりますので、92号では自分の2003年のベストの1枚を選んでみました。『星 夜』という作品です。これは写真展でも飾らせていただいたものですが、物知りな方はこの作品を使って、理科の授業を始められます。確かに、星々の軌跡を「流れ星」だと思っておられる方もいるので「授業」が始まるのでしょうか?
この作品は10月7日の深夜の撮影で、6日の撮影を終えた僕たちは美瑛町にある古びた銭湯に入っていました。銭湯を出て、十勝岳連峰の近くにある「寝床」まで車を走らせたとき、前方にオリオンが見えてきました。オリオンを見ながら走っていると、このような写真が頭に浮かんできましたので、寝るのをやめて、撮影地まで向かいました。すると、思ったよりオリオンは東空低く、まだ十分に撮影に間に合いましたので、急いで撮影を始めました。 カメラに入っているフィルムの感度はISO100。カメラの中に十勝連峰とオリオンを入れて構図をとります。インテンスクリーンというアメリカ製の明るいスクリーンと交換しているので、前がよく見えます。西空15度には上弦の月の少し前の月が照っており、肉眼でも十勝連峰の山並みがよく見えます。このような撮影は久しぶりなので露出がわかりませんが、今までの経験をもとに必死で露出を算出します。「高度15度の上弦の月に照らされた雪山の適正露出を求めよ!」という試験にでもでそうな難問です。これに対して出した僕の答えは「F2.8 20分 ISO100」としました。
まず、ストップウオッチを合わせて、20分間の露出を始めます。三脚に固定して撮影するので、地球の自転のために星が軌跡を描きます。この間に車に戻りもう一台のカメラに感度400のフィルムを入れて、もう一本の三脚にこれをつけて撮影を開始します。感度400ですから露出時間は1/4ですみます。そのため星の軌跡も感度100のフィルムに対して1/4で写すこともできます。
さて、オリオン座の移動に合わせてレンズを交換しながら何枚かを撮影していきますが、露出中時間があるので突っ立ちながら、沈んでいく月をぼ〜っと眺めていました。その時、月が完全に沈んだら山は見えなくなるが、その代わり満天の星空に変わることに気がつきます。だから、月が沈むその10分ほど前に露出を開始して、月が沈んでから30分間露出すれば十勝連峰の上空に満天の星空が撮れると思いました。確かに、その通りになり、月が沈んだ途端十勝連峰の上空の空は満点の星々に埋め尽くされ、一等星の多い冬空のこと、ダイアモンドのように高貴な輝きが散りばめられていました。そのうちでも、わずかに遅れてシリウスが出てきましたが、シリウスはその名の通り(焼き焦がすもの)その輝きを見つめると、まばゆくて目がつぶれそうです。そのうち、一角獣座の辺りの冬の天の川はひときわその濃さを増し、銀の紗をたなびかせながら、暗くなった山々の奥へと連なっていきました。そして時間が経過してくると、冬の銀河もまたかなり高度を上げ始め、ますます美しく銀の滝のように天高くから大地にかけて流れ下っていきました。しかし、そのうち東空から異常なほど明るい光が差し始め、しばらくすると冬の銀河とその光は大きくクロスします。黄道光です。黄道光とは夜の太陽の光のことです。地平線に対して黄道の角度が急になる秋の明け方頃、ひときわよく見えるようになります。黄道光を見たのはこれが2度目です。2年前美深町の函岳でそれを見ましたが、こんなにくっきりと明るい黄道光は見たことがありません。黄道光の影響で東天の星々や冬の銀河まで見えなくなってしまいました。よく考えれば、こうなるのも不思議ではないのですね。地球なんて、たかだか直径12000kmの球体です。宇宙からしてみれば、点にしか過ぎません。しかし、律儀にも太陽の光は直進して、ちゃんとこんなに小さな星にも影を作ってくれるのですから!そして、我々人間はこの影となる時間を休息の時としてこれを生活の習慣とし、またこの影を恐れ、影を多くの人工の光で明るく照らそうとします。しかし、皮肉なことに、その人工照明は時として人々から安らぎや畏怖を奪います。こうして本来の黄道光をここで見るまで、黄道光は大変見えにくいものだと聞いていました。しかし、実際ここで黄道光を見ると、そんな噂とは逆で、太陽のことが怖くなってくるほどでした。こんなに深い深い夜の安息の世界まで、日の光は進入してくるのか!そう考えると、夜があるってことが奇跡的なことのようにも思えたのです。
生まれてこの方、街にだけ住み続けた人が僕の隣に来て、この星空を共有したとしたら、いったいどういうことになるだろうか?あまりの美しさの感動のあまり震え始める人がいるのだろうか?あまりの暗さに耐えられなくなって、再び街に帰っていくだろうか?あるいは、もっと大きな影響を受ける人がいるだろうか?その反対に
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●NO4
「太陽や星の運行がどうしたんだ。くだらない」と言って、何にも感じずにずに帰る人がいるだろうか?目と鼻と口があって、同じ地球に住んでいる同じ地球人だけれど、その反応は様々だ。もちろん、僕の写真展を見てもそこにあることさえも気づかないで通り過ぎる人が大半で、その反面、はるばる遠くから時間をかけて見に来る人もいる。この人の違いとはどこからくるのだろうか?
時の輪が接するところ、人の心と心とが接するところ。満天の星の下でみんなと一緒に星を見ることがかなわないなら、せめて自分の写真展がこの時を愛する人の心と心とが交わる場所でありたいと思う。中途半端なものでもこんな写真展があってもいい、そんなことを思いました。
2枚目の作品は1枚目の作品に対して、オリオンが西に沈んでいくところの作品。西に傾いたオリオンを見ると冬がもうすぐ終わるんだなあ、という寂しさと、長かった冬が終わってようやく春が来るんだなあという安堵感の二つの気持ちが混雑します。この二つの気持ちは人によっても違うし、その人の一年の過ごし方にもよると思います。この作品ではそんな沈みゆくオリオンを二人の雪だるまが見つめているところを写していますが、僕はこの作品では冬が終わる寂しさや春への憧れのどちらの気持ちも込めようとしていません。ただ、雪原の中で二人で見上げる星空の美しさを伝えたいと想っています。そしてそれと同時にかけがえのない二人の人としての美しい時間を賛美したいとも想っています。つまり僕は星を見る時は人の心に培われた季節感とその場の雰囲気をとても大事にしたいと考えています。確かに季節感というのは星空がつくるものではなく、太陽と地球の地軸の傾きによって決まることですが、星を見るときに欠かせないものは、どうしても周りの季節感だと思うのです。虫の音を聞きながら見る秋の星空。この作品のように雪原の中で見上げる冬の星空、蛍が飛ぶ夏の星空、蛙の声を聞きながら見る春の星空…、そしてその時々で星座は姿を変え、星々の輝きも変わっていきます。おまけに、この季節感は北と南では異なり北極星の傾きもずいぶんと変わり、見える星座も、動いていく傾きも違います。確かにこのことは地球が傾いて公転し、単なる点ではなく12000kmの球体であるということに起因することです。しかし、そのような無機的なことで生じることであっても、その無機的な現象が我々人間の心に触れたとき、それが有機的なニュアンスを含み始めるのだと僕は思うのです。僕たち人間は無機的なことを越えた、有機的な世界に生きています。この意味で、この作品は冬の空を二人で眺める最上の時間への賛美と合わせて、地球の季節感と無機的な宇宙を結びつけたときに生じる人間独自の有機的な感覚の世界を表現しようとしているとも言えます。このことは、この作品に関わらず、僕が目指す主要なテーマであります。宇宙はいつからか黙りこくってそこにただ存在しています。しかし、人はその宇宙を見て、綺麗だと感じます。これはどうしてなのでしょうか?どうして星空を見て僕たちは綺麗だと感じるのでしょうか?僕たちの古く遠い記憶がそうさせているのでしょうか?この説明のつかない感動という不可思議な心の動きとはいったい何なのでしょうか?この疑問に答えを出すために、僕はこれからもずっと感動を目に見える形に変えていく仕事を続けていくのだと思います。
さて、冬に実際に星空を見上げようとすると、とても寒いものです。しかし、少しはりこんで、いい羽毛のジャケットを着込んだりすると、ことのほか暖かいものです。そして羽毛に守られながら雪の中で星を見るというのがこれまたいいものなんです。ダイアモンドのように光り輝く冬の星空、星明かりに浮かび立ち、かすかに見え隠れする透明な雪原、夜を支配する無限の静寂、そして鳥の羽の柔らかさと一杯の温かい紅茶…。そんな最上のひとときは何にも代えられません。これらひとつひとつが僕の大好きなものです。柔らかな羽毛の感触、きらきら輝く冬の星々、暖かな一杯の紅茶…。
生きることに疲れたら、その時は自分の好きなものを抱きしめて下さいね。大好きなもののことだけを思って下さいね。そうすれば、いつかは癒されると思う…。そんなことを2003年の最後に伝えたいと思います。
2003年の一年間本当にありがとうございました。2004年度も何とぞよろしくお願いいたします。2004年8月には北国通信も何と100号を達成する予定です。1996年5月に始めた北国通信ももうすぐ9年目、100号に手が届きそうです。これからもますますがんばっていきますので、何とぞよろしくお願いいたします。
お体を大切にされて、良いお年をおむかえ下さい。
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