の世界
100 『白黒写真の世界』 2004年8月
奥入瀬渓流
青森県 八甲田山 蔦沼
●NO1 AUG. 2004

 みなさんこんにちは丘のうえの小さな写真館の山下正樹です。おかげさまで、この8月号を持ちまして北国通信は第100号をむかえることができました。
 
北国通信は1996年の5月に『カタクリ一輪』を一番最初に送り出したことで始まります。
あれ以来、8年と4カ月、ついに100号をむかえることができました。こんなに長く続けられるとは思いもよりませんでしたので、本当に嬉しいです。本当にありがとうございました!
 
 さて、北国通信第100号ですが、ずいぶんと遅くなってしまいました。まずこれをお詫び申し上げます。理由ですが、ちょっと悲しいことです。今まで北国通信などの額を供給してくれていた大阪の額メーカーの下請け会社が倒産し、今後この額を生産していくことができなくなり、北国通信も変わらざるをえなくなったことがその主な理由です。
 プラスティックといえども成型する金型に150万円ほどかかるために、生産の打ち切りという結果になりました。とても残念なことです。
 
 最初はショックで路頭に迷いましたが、考えようによっては好機なのかもしれないと、良い方向に考えるようになりました。その理由として、

1)最近写真が小さいと感じるようになっていたこと
2)最近カメラが6×4.5判から6×6判に変わったこと。
3)以前から額を変えられないか?と考えていたことなどを実現できる好機だと考えたからです。

 今までの大きさの写真で整理してくれている方にはどう配慮させてもらうのか?とか写真を大きくすることでコスト的に今までのように2枚お送りできなくなるかもしれないという不安も今だ未解決ですが、何とか現像所との値段交渉を根気強く続けていこうと思うようになりました。
 
 そういうわけで、今後北国通信が大きく変わるかもしれません。どうか驚かないで下さい。それともし差しつかえなければ、変わった感想などを届けて下さいますと大変助かります。どうかよろしくお願いします。
 
 さて、今回は第100号を記念して、白黒写真に挑戦してみました。
それで今回は白黒写真について説明させていただきます。
 実は、自分は通常通りのカラーの作品ともっと大きめの白黒のプリントをお送りしようと想いましたが、慶ちゃんからの意見で額装された作品の方がよい!ということで、こういうスタイルでお送りさせていただきました。
 そして彼女の企画に従って制作をしている途上、額メーカーの下請け会社の倒産を聞き、急きょ代わりの額を制作してもらい、制作を振り出しに戻し、お送りしたわけです。
 だからお送りした額はできたてのほやほやです。 僕が白黒写真を最初に始めたのは時をさかのぼること18年前。
大学の写真部に入った時のことです。今思えば北大の暗室は、それは立派なもので、何の苦もなく全紙まで台板上で引き伸ばせるなど、広さも10畳ほどもあったでしょうか。
 それが大学を出てから自分の住むところに暗室をこしらえることは至難の業であり、長いことあきらめていたというわけです。
 そしていつかきっと…と思い思いしながら18年が過ぎたわけですが、この度慶ちゃんの方から暗室を造ってほしいという希望が出され、この春からしぶしぶ作り始めたというわけなのです。
 

 しかし、こうして実際に白黒をプリントすると実に美しい!学生時代の自分の作品とはまるで違って驚いてしまいました。自分の作品をほめるのも変ですね。しかし、写真はどんなに腕のたつ人でも、撮影機材が悪くては見栄えのする作品が作れないこともまた事実です。
 その昔、学生時代、カラー写真を撮るお金がないこともあって、白黒=安い!という等式に従って、しきりに白黒写真を撮影しました。しかし、持っていたレンズもひどく、とても満足できる結果を得ることができないでいました。
 展覧会に出品したり、写真展などをすると僕の写真はなぜかことのほか人気を博しましたが、写真作品としてはあくまで邪道なものであり、そのことは十分本人が一番心得ていたわけです。
 例えば、35mm判フィルムから四切(A4) くらいまで引き伸ばすと、もうそれはすでに鑑賞に耐えられるようなものではなくなります。
 この鑑賞に耐える耐えないの度合いですが、人物を写したものなら目を細めて少し離れて見れば耐えられましたが、風景は絶対に無理だった。特に雲など階調が必要な作品はまったく子供のお絵かき程度のほどにしかならないのが現実だった。
 もっともレンズ自体解像力の良いレンズを使えば良かったのだろうが、あのころの自分がようやく買えたレンズといえばシグマというメーカーのレンズくらいで、そんなレンズで写る方がどうかしていたのだろう。

学生時代に使っていたシグマという2流メーカーのズームレンズ。あの頃はこのレンズを買うのでもやっとのことだった。このレンズで白黒の風景を写すと絶望が写る。何もかもぼけて写るのだ。
●NO2 AUG. 2004

 しかしその頃、意欲だけは誰にも負けていなかった。本当に色々なことをやった。特に風景写真を白黒で表現することには何度も方法をかえて挑戦し、その度にがっかりした。
 しかし、その中で一番面白かったことはR64という濃赤色のフィルターで撮影することだった。R64という濃赤色のフィルターで撮影すると、もう可視光線のほとんどをカットして、赤のいくらかの波長域と、赤外の光で写していることになる。
 そうして写してやると、雲は立体感を帯び始め、空は真っ黒に落ちる。つまり紫外線の影響のある青っぽいところが全て印画紙に感光しなくなるのだ。
 しかし、いくら何でもこの方法だとコントラストがきつくなりすぎるので、現像段階でコントラスをを調整することが鍵となったが、これを試すところまで力が及ばなかった。しかし、コントラストよりも白黒の場合には粒状性が問題だった。
 銀塩写真はハロゲン化銀の粒子で成り立つが、この粒子が白黒の場合カラーの何倍も目立ち始め、特になめらかな女性や子供の肌や白い雲の微妙なトーンを再現するためにはこの粒状性を改善しなければならない。粒状性の改善には現像液の変更や低感度のフィルムを使うことである程度乗り切れるわけだが、その効果は大幅な改善をみることはなく、比べれば幾分違うかな?と思わせる程度でしかない。
 従って、結果として白黒を撮影するためには、引き伸ばし倍率の低くなる大きなフィルムが必要不可欠となり、それ以外に、鑑賞できる作品はできないと、18年前に僕は結論づけていた。
 
 そうして、10年ほど前にフィルムが35mm判の3倍あるマミヤ645という6×4.5cmのフィルムサイズのカメラで函館を白黒で写してみたことがある。しかし結果は良くなかった。まるで鑑賞できるような作品にはならなかった。

645判でもだめか…。その時も実に辛い思いをした。やはりもっと大きくしないとだめか…、と一人暗室でぶつぶつ言っていた覚えがある。その挫折以来、まともなプリントを得るためには35mm判の10倍は面積がないとだめだという結論から4×5判以上(しのごばんと読んで、4インチ×5インチ=10cm×12.5cmのサイズで、蛇腹を伸び縮みさせて使うカメラ)しかないと思い始めていた。しかし、4×5判となるとカメラ全体が大きくなって、フィルムも2枚撮りとなる。しかも、引き伸ばし機もものすごい値段になるから、先送りするほかなかったのである。
 
 それで、この度も4×5判はやはり無理であったが、6×6判で再挑戦ということになった。6×6判だからそんな良いわけがない!と僕はあまり期待しないまま6月の撮影中、機あるごとに白黒で撮影し始めた。目標だけは大きく、「モノクロの手法により格調高く日本的山紫水明の情感を表現すること」であった。
 そしてつい先日、現像したネガをプリントしてみて、驚いた。実にいい!小さいながら実に良いできだった。これなら鑑賞に耐えられる。ぼくは気をよくした。ハッセルはやってくれるなあ〜と思い思いした。さすが世界に誇るカールツアイスのレンズ群である。
 このことは、カールツアイスのレンズの中をのぞき込んだとき何もかもはっきりする。まるで宝石のようなガラスとコーティングの輝きが全てを物語ってくれる。ただ、喜ぶのはまだ早い。北国通信を無事に発送を終えた後、早急に全紙まで引き延ばして見るつもりなのだ。
 そして全紙のプリントで鑑賞に耐えられるというなら合格である。しかし、やはりこれでもだめなら、行くところは一つしかない。4×5判以上の大型カメラの世界なのだ。大型カメラだけには行きたくないから、もっとハッセルで悪戦苦闘するかもしれない。そしてその苦闘は、やはり徒労の斧に終わるのかもしれない。しかし、いずれにしろ一刻も早く結論を導きたいのだ。
 白黒写真は始まったばかりかもしれないが、18年も暖めていたことなのだ。一日も早く結論を導いて、一枚でも多くの作品を造りたいと闘志に燃える。白黒の世界で日本や世界の郷愁を表現したいという気持ちに偽りはない。 

最近そろえたプラナー100mmf3.5のレンズ表面のコーティング。トパーズ色のコーティングはまるで宝石のようだ。ハッセル用カールツアイスのレンズ群の中にあってプラナー100mmf3.5は地味な存在だ。あまり期待しないで仕方なく買ったのだが、見てびっくり。何かを感じさせてくれるレンズだ。ディストーション(歪曲収差)を徹底的に補正したレンズで、ハッセル用にツアイスが特別に設計したレンズだという
●NO3 AUG. 2004

 この8月から9月にかけて、予定では大雪を撮影して行くつもりだった。
しかし、今撮影に向かうことよりも足元を固める方が先!という結論を出し、撮影は断念。ハッセルの残りのレンズ群をそろえ、その結果いかんによっては大型カメラを導入する計画を立てた。
 その結果を出すためにもっかのところ悪戦苦闘中である。実際には今までお世話になってきたマミヤ645のレンズ群を手放して、それを元手にハッセルのレンズに変えるという仕事になる。
 こう書いてしまうと簡単なことなのだが、今度使う人のためにレンズを清掃に出したり、細々としたことが多い。その甲斐あって、なんとかめどが立ち始めている。
 当初、星の撮影だけはマミヤ645で行うつもりだったが、システムが混乱してしまうために、星の撮影も全てハッセルで行う決心をした。
 星の撮影までハッセルでできれば、実に頭の中がすっきりする…と考えたのだ。しかし、いつもは予備となる星の撮影のためだけにハッセルレンズをそろえることはあまりにもったいなかった。
 しかし、後でお話しするが、ハッセルで6×4.5判を撮らなくてはならない!という必要性もあったために、この2つの理由からハッセルのレンズを全てそろえていこうとしたのである。
 しかし、ハッセルのレンズは暗いレンズが多いから星の撮影にはむかないのではないか?という声が聞こえてきそうだ。
 だが、国産の見栄だけで明るくしたレンズと違い、ハッセルのレンズは開放から隅々までシャープで、周辺減光もないために、問題なく開放で星を写すことが可能なので、別に暗いレンズでも星が写せるのである。
 国産のレンズは見栄だけで明るいレンズを造るが、実際にそれを使用するとき、たいてい半絞りか一絞りくらい絞って使おうとする。例えば、開放F値がいくらF2.8でも一絞り絞れば、F4で写そうとするわけだが、こうした使えもしない明るいレンズは重いだけで良いことはあまりないのである。ただ、このことは星の撮影という特殊事情にあてはまることで、ライカなどのように開放で写したときのとんでもない収差(レンズの欠点)を逆に作画に利用する方法もある。こういったところが難しい。星の撮影などでは究極のコントラストと隅々までシャープな光学系が必要とされるが、逆に人を撮るなどの場合にはあまりその必要性がない。むしろライカなどが得意とする、とろけるようなピントが必要になるのである。
 
 こうして星の撮影に至るまでハッセルでやる決心をつけたのだ。後はハッセルが氷点下20°で動けばよいが、そこだけが心配の種である。
 またハッセルのカメラボデーをそろえることも実はそう簡単なことではない。僕の場合4台のカメラボデーをそろえる必要があるのだが、この4台を決めるのもそう簡単ではない。
 ハッセルは50年間ほとんどモデルチェンジをしてこなかったが、大きく分けて、500c→500C/M→503CX→503CWと約4回モデルチェンジされている。
 この中で500C/M時代は長く、18年間も500C/Mを作り続けている。しかし、同じものをずっと造っているというわけでなく、何も言わないでそっと改良を続けているのだ。
 ハッセルの場合、ボデー背面にふられた番号を見ると、そのボデーが何年に造られたものかわかるようになっている。その対応表を次に示してみます。

V H P I C T U R E S

1 2 3 4 5 6 7 8 9 0

 上のVHPICTURES とはビクターハッセルピクチャーズは、ハッセルブラッドの創始者であるハッセルブラッド博士にちなんだ呼び方で、このアルファベット10文字に上のように数字が配置され、それで製造年月日がわかる仕組みになっている。
 例えば、右の写真は503CXの背面で、フィルムを入れるマガジンというところを取り外したところ。その下のところに11EP25751と記されているが、このEPからこのカメラが93年、つまり1993年に製造されたことがわかるようになっている。
 このことは意外に重要なことで500C/Mなどの場合18年間も造られていた間に、内面処理(カメラの内部表面の反射処理の仕方)などが微妙に変化しており、500C/Mが必要な場合、何年製造の500C/Mが良い。などと判断をつけていかなければならない。何年製造のボデーをそろえればよいのか?このことは写真の出来不出来に関係する大切なことなのだ。
●NO4 AUG. 2004

 それで調べている内に製造番号「RU」つまり87年製が良いことがわかり、3台目のハッセルは製造番号RUの500C/Mを選んだ。確かに、500C/M前期に比べ内面処理が格段に良くなっている。特に星の撮影では内面処理がうまくいっているかどうかで、結果が大きく変わるから、慎重にもなってしまう。驚かれるかもしれないが、一時間近くも露出し続けていると、一番後ろのレンズ面の反射がフィルムに写ってしまい、フィルム中央が丸く白っぽくなってしまうことがある。こうしたカメラボデー内部での反射は無視できないもので、本当はカメラボデーというのはこのことだけを考えれば、できるだけ大きなカメラが良い。ボデーが大きければ、ボデー内面で反射した微かな光もフィルムに届きにくくなるという理屈なのだ。
 
 そんなこんなで、撮影の方に手をつけられない苦しい日々が続いているが、表面的にいくらしゃかりきになっても成功しないこともわかるので、今は我慢のしどころだろう。層雲峡からの情報によると後1週間もすれば、大雪は紅葉の盛期を迎えるという。こう聞けば、長年撮影できなかった秋の大雪が目の前におぼろげになって浮かび見え、涙も出そうになるが、やはり人生いい思いばかりはできまいと、自分を励ます日々。
 これからの課題は白黒写真の技術確立とハッセルを核とした撮影システムの再構築だろう。これを達成しないで先はないのだ。長年使ってきたマミヤ645からハッセルへシステムを入れ替えたり、白黒写真へ挑戦することはそう簡単にできることではないようだ。しかし、マミヤを使っていては、白黒写真とカラーを平行してやっていくことは不可能だったのである。ハッセルはカメラ後方についたフィルムマガジンを取り替えるだけで簡単にカラーと白黒をほぼ同時に撮影できるという大きなメリットを持っている。
 しかし、マミヤではこれができなかったのである。白黒を撮影するためにはもう一台白黒専用のボデーを用意しなければならず、これでは事実上白黒写真を撮ることはできない。どうしてもボデーは一台でありながら、瞬時にフィルムが入れ替えられなければならなかったのである。このハッセルのマガジン交換と白黒とカラーの両立はおぼろげに期待するところだった。しかし、実際暗室で白黒フィルムができてきたのを見たとき、何とも言えない嬉しさが胸中に浮かんだ。プリントもそうだが、本当はネガティブもお見せしたいものだ。6×6判の白黒のネガティブは想像以上に上品で、美しいものである。マミヤを使っているときには絶対にできなかったフィルムが今手元にある…そう思うと、辛かったけれど、ハッセルに変えて良かったと思ったのである。
 
 さて、今月の作品は2枚。そのうち一枚は奥入瀬渓流から。奥入瀬渓流の作品は6月にカラーで紹介したので持っている人は比べてほしい。流れ自体もほぼ同じところのものだ。カラーの方は6×6判をトリミングして横長にプリントしているために構図的に不満が残る。しかし、白黒の方は撮影したままのノートリミングだ。
 
 白黒フィルムはコダックのT-max100を専用現像液で指定通り24℃6分30秒現像している。そしてもう一枚は奥入瀬渓流の近くにある蔦沼(つたぬま)での作品。霧にかすむ春のブナ林が幻想的な風景である。このどちらもカラーフィルム2種と白黒フィルム1種の合わせて3種のフィルムを同じ場所で同じレンズで撮影している。こんなことができるのもハッセルのおかげで、フィルムマガジンだけ持っていっていれば、こうやって同じ場所で素早く3種類のフィルムで撮影できるのだ。このことだけでもハッセルに切り替えて良かったなあ〜としきりに思うことだ。あのままマミヤで写していたらこの写真は今ここにないのだから…。その昔、白黒とカラーの両立はできないと、先輩諸氏から言われたことがあり、それでしばしこのことが頭の中をよぎっていたが、実際にやってみると、ことのほかできるものである。というより、やった方が良いような気さえするのだ。またと出会えない一期一会の風景をできるのならカラーと白黒の2種で撮れるにこしたことはない。
 
 しかし、最初に触れたようにカラーは横長で、白黒では正方形の画面になっている。このことはカラーと白黒を両立させること以上に大きな問題を提起する。すなわち、6×4.5判と6×6判との両立なのであるが、実はハッセルはフィルムマガジンの変更で、6×6判も6×4.5判も両方撮ることは可能なのである。しかし、ファインダースクリーン上では6×6判と6×4.5判とは両立できず、6×4.5判のためにはもう一台それ専用のカメラを用意しなければならなくなる。しかも、6×6判と6×4.5判とでは満足のいく構図で撮るには、レンズの焦点距離を一段変更しなければならないのである。
 例えば、6×6判で80mmで撮影していた風景を6×4.5判でも撮っておこうとすると、一段焦点距離の短い60mmのレンズのついた6×4.5判専用ボデーをわざわざ持ってこなければならない。しかし、この6×6判と6×4.5判との両立は避けては通れない道であり、そのためにハッセルブラッドに用意されたレンズの全てをそろえないといけなくなってしまったのである。
 このことは考えられないほどの経済的な負担となってのしかかってくるが、しかし僕の場合、星の撮影のための予備レンズとしての役目も兼ねられるために、ハッセルで6×4.5判を撮れるようにレンズをそろえる決心をした。ただ、レンズがそろっても6×6判と6×4.5判の両立が本当にできるかどうか自信はない。頭の中を整理して、慣れてくればできるかもしれないが、かなり熟練しなければできないような気がする。白黒とカラー以上に、6×6判と6×4.5判との両立には今後頭を抱えそうだ。

●NO5 AUG. 2004

 先日、お客様の一人である女性の方が丘のうえの小さな写真館を尋ねてくれた。
彼女を空港に迎え、渡島半島をぐるりと車で案内をさせていただいた。その時、函館 蛾眉野にある丘陵地と恵山の海の見える小径まで彼女を案内したのだが、その時多様な花が草原に咲き誇るのを見て、とてもすがすがしい思いがした。
 
 野山にはすすきが揺れていたし、草原には晩夏の花たちが可愛らしく咲いている姿は、すばらしいものだった。晩夏への放浪が胸の中に湧き起こり、ぐらついている撮影機材の構築のために消えていく日常がうとましい。
 本当は秋の風に乗って、心はかなたの宙をさまよっているのだ。一足早く秋を迎えようとする大雪に行けないことはもうはっきりとしたのだが、それ以上に晩夏の放浪へ出かけることのできない悔しさの方がとても大きい。
 今、台風が通過中で、またしても風がびゅうびゅうとうなりをあげている。そして生暖かい空気が当たりを満たし、こうして地球全体の空気が混じり合うのか!などとわかったようなことをくちずさみながらも動けない自分がまた悔しくなるのだ。
 せめてもの救いは白黒写真のことを思うときに、何らかの光明を感じることである。白黒写真に何ができるのか?可視光線を感じることを許された人間が色の多様性を完全に捨て去り、白と黒の2色に変換することに何の意味があるのか?この答えはもう少し先に考えることとしよう。今は、機材をそろえてしまい、一日も早く自然界に復帰することを目標に生きよう!

とここまで書いたときに、停電である!!
万事休す。

●NO6 AUG. 2004

 その後、30時間停電が続き、ようやく再開。また北国通信を出すのが遅くなってしまう。停電するとコンピューターも暗室も使えなくなってしまう。これではお手上げである。今のところ、用心して暗室は夜にしか使えないから、停電が復旧するのを夜中起きて待っていたが、やはり駄目だった。結局、昼も2時になってからようやく停電は解消され、続きの文章を書き始めることができたというわけ。
 
 ニュースによると北大のポプラ並木のうち、その40%が倒れたと聞く。ポプラは生長の速い木なので若い木でも植えてくれれば、後10年もすればまあまあの見栄えになるだろうから、是非そうしてほしいものだ。本当はもっと長くして、キャンパスの方とつなげてほしいと思うのだが、今の北大にそんな気のきいた人物はいないだろうなあ〜。どういうわけなのか、並木道などに関心をもたない先生が多いのも不思議でならない。
 
 数年前からポプラ並木は倒木のおそれがあるから立入禁止とされていた。でもよく考えてみると、通れない並木道とはいったいなんだろう。ポプラは風響樹。

風のそよぎを葉音に変えて我々に風の音を教えてくれる木だ。そのポプラの葉音
を聞きながら、その並木道を散策しながら物思いに耽りたいものだと僕なら考えるが、今の大学関係者はそんなことを思いつきもしないのか、その間にとうとうこんな悲惨な姿になってしまった。並木道というのだから、ベンチなどもおいて、皆が行き交う道に再生してほしい。そんな淡い期待を持つが、現状維持程度は期待できても、それ以上良くはならない現実はつまんない。我が館でも期待のアンズの木が根元から折れたし、ポプラも傾いた。物置の屋根は飛び、柵が崩壊した。しかし、考えてみると、これは再生の機会なのだ。このチャンスを生かしていけるかどうか、それが試されているのかもしれない。停電中も我々はランプのコレクションが功を奏して、優雅な灯油ランプの光を楽しんだ。そして真っ暗に近くなった函館や大野平野を見下ろしながら、双眼鏡で美しい星空を眺めていた。そして戦時中に星が綺麗に見えた、という老天文家の言葉が浮かんだ。そしてその夜見た月やスバルの透明感はことのほかすばらしかった。真っ黒な夜空を背景にまるで透けて見えるかのような輝きだ。いつも星空がこんなに綺麗だったらどんなに素敵だろう。そんなことを思い思いしながらいつ復旧してもよいように目を覚ましていたが、結局その夜の内には復旧しなかった。

停電中
停電中、ランプの光でハッセルブラッドを写してみた。
柵崩壊。この他にも台風がまき散らした海水の影響で、周辺の木が枯れ  てしまった。特にリンゴの木がひどい。
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