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丘のうえの小さな写真館 北国通信の世界
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第95号 北国通信『春の気配』 2004年3月
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春爛漫 北海道 道南
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●NO1
多弁を必要としない。春が来たのである。信じられないことに春が来たのである。あまりにも長い冬に耐えていると、春のこのすばらしくうららなかな陽気が信じられなくて、なかなかなじめず、何をしていいかわからない。放心状態である。あまりにつらいことに慣れすぎてしまうと、人はいつの間にか、幸福の味をも忘れてしまうというのか。僕はやはり今年もあまりに早く来すぎた春を目の前に呆然と立ちつくしている。いざ春と直面してみるとこの春の躍動をどうとらえたらいいのか、わからないまま、右往左往している自分がいる。そして、頭の中だけは焦燥感がみなぎる。もう4月だから、あと、5月、6月、7月と今年も残すところ3ヶ月しかないなどと思い始める。北海道の季節感は何もかもがこの3ヶ月間に収束してしまうために、この3ヶ月というと、寝るのも惜しいほどとなり、気持ちはこの3ヶ月間、高揚し、あまりに美しい世界に陶酔する。星野道夫が書いていた本の中に、アラスカの人たちは、この季節が来ると会話をしなくなる…とある。そう、会話を交わす時間さえ惜しいということなのだ。北海道でもこれは同じなのだ。もし、ある人が人の造った生活リズムから一歩外に出て、神様、つまり自然の奏でる生活リズムに合わせようとすると、息を付く暇もないほど濃密な時間を経験することになる。ぼくはここ数年、この突然やってくる春に合わせて冬の間に十分の準備をしようとしてきたけれど、どの冬も思ったほど準備が進まず、こうして春を目前にしてあわてふためくのを常としてしまっている。特にこの冬は約一月もかけて総合カタログを作成し、その後、撮影機材の見直し、そして現在は函館夜景のポストカード集の改版…とこれだけぎっしりと仕事を抱えてしまうと、春を目の前にして呆然となるのもうなずけるというものだ。人は本来自然のリズムに合わせて生きるべきなのだが、いつの間にか勝手に人間の生活リズムを作り上げてしまい、その結果、自然の中に癒しを求めようとするが、こういう、消極的な姿勢で自然と対峙していては本当はいけないのだろうなあ。
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チューリップとクロッカスの芽生え。落ち葉を突き通す。丘のうえの小さな写真館の庭で。
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●NO2
と、思うことしきりである。人が作り上げた生活リズムの中で疲れ果ててしまうと、人は自然の中に行って、その疲れを癒すことが精一杯となって、つまり、積極的に何かをしたいとか、学びたいとか思わなくなってしまうのだろう。このことは、写真を生業とする自分にはことのほか辛いことだ。写真家が人の生活リズムの中で疲れ、自然の中で写真をとるという積極的な働きかけができなくなるほど疲れることは本当におかしなことだ。いや、写真家だけではあるまい。本当は、多くの人がもっと余力を残しながら生活して、自然や旅の中で積極的に生きていけることが大事なのだろう。しかし、そうは言っても、一歩自然の中に足を踏み入れれば、目が覚めるほど美しい風景が現れては心が振動を始める。しかし、この振動を持続させるには日常の仕事が多すぎる。これにはほとほとまいってしまう。
前ページの写真は丘のうえの小さな写真館の庭のチューリップとクロッカスの芽生えを写したもので、時を同じくして庭では下のような福寿草の花が咲く。前の持ち主が近くの山からとってきた福寿草が毎年この時期に花を咲かせる。大半は神戸の父に送って、神戸の家の小さな植木鉢でも毎年花を咲かせている。今年、父は福寿草の植え替えをやったという。あまりに増えないと言うのだ。しかし、庭にあると福寿草はゆっくりとだが、確実に増えていく。花が咲かなくても葉は独特の菊のような花なので、これを見つけてはより環境のいいところに植えてやると簡単に増え始める。自然界は厳しく、あまりにゆっくりとしているが、ちょっとしたことで確実に実が実るのである。しかし、福寿草は小さい花で、初めて福寿草の芽生えを見たら、きっと仰天するに違いない。あまりに小さくて、驚くほど可愛い。この近辺では上磯町のダムの下に大群落があり、この大群落と出会ってから実に15年になる。毎年この時期になると下見に行き、仕事をやっつけてから必ず写しに来るからね…と心に誓うのだが、ここ数年誓ったきりになってしまう。以前は、月光に照らされる福寿草の撮影などをして、かなり深いおつき合いをしていたが、最近どうもご無沙汰になっている。これではいかんいかんと、思い思いしながら今年も福寿草の時期を迎えているが、なかなか本格的に撮影に行けないで、心苦しい。
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仲良く並ぶ福寿草 丘のうえの小さな写真館の庭で
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●NO3
こういう福寿草などと親密なおつき合いをしていると、夜になって暗くなったり、風が少しでも強く吹くと必ず心配になる。寒くないかなあ〜。とか寂しくないかなあ〜とかである。こうしていても立ってもいられなくなって、福寿草を夜に見に行くと、月のない夜は全く見えないのだが、月夜の森の中は想像以上に明るくて、残雪もあるので、これが結構よく見えるのである。そして深い静寂を感じながら月に照らされた花々を写し回っていると、なかなかこの時の印象などいつまでも心に残る。また、雨の中もいいもので、なぜか雨の日のことも結構いい思い出になって心に残る。多分、月明かりは眩しさと薄暗さのために強いインパクトがあるのだろうし、雨の日は光がよく回って、物がよく見えるのだろうか?理由はわからないが、晴れた日よりも月明かりの夜や雨の日の思い出が多いのである。こうした季節との深いおつき合いは、心の奥深くに力強い印象となって残るが、日頃の生活で疲れた心で、余裕なくつき合ってもなかなか、心にしみ渡りはしない。この人生、本当に自分の心が陶酔し、戦慄を覚える時間はどのくらいあるのだろうか?アンデルセンは旅がその人生!とするが、僕はそうとも言い切れないと思う。そうかといって、日常生活が人生だとも思えない。そう考えると、結局僕は、人生は自分の愛する世界の中でより深く沈潜し、陶酔できる時間ではないのか?と思うのである。最近読んだ『ラップランド』という書物の中で、気になった言葉があったので、ここで引用する。『ラップランドは深い静寂が支配する国である。かすかな風のそよぎも、遠くに聞こえる水音も、この静寂を破ることはなく、むしろよりいっそう静けさをもたらすばかりだ』これはR・Pリスターという写真家の言葉だ。僕もまた、ラップランドではないが、静寂を愛する。しかし、あたりがしんと静まっていることだけが、静寂と言うわけではない。心の中がよく磨かれた鏡のように澄んで、いなくてはその静寂を単なる退屈な空間として見過ごしてしまうだろう。しかし、心の中を静かにすることは現在至難の業だ。
しかし、今僕は猛烈にこの心の静寂に憧れる。その昔剣道をやっていた頃、不動心という境地を聞いたことがあるが、まさに自然の中で心を止めて、わずかな変化に対しても心が反応するように、心の泉の波を沈めておかなけらばなるまい。そうしないと、自分がいつ生きていたのか、知らない内にどんどん時間ばかりたっていく。日常とは怖いものだ、ブラックホールのように自分の貴重な時間が吸い込まれていく。本当のブラックホールは宇宙のかなたにあるのではなく、本当は自分の隣にあるのではないのか?と思うばかりなのだ。
こうした心の静寂を維持しながら、自然風景に対峙していくのが写真家の仕事であろうし、自分の役割のような気がする。その昔、武士が武道によって自分の人生を極めていったのと同様に、
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●NO4
自分は写真を撮ることで、自分の人生を極めていく。極めるとは、季節の中でどれくらい、澄んだ心でいられるか、ということになろう。しかし、実際、自分の心は様々な日常の出来事によって濁り、波立っている。しかし、そうだからこそ、無性に陶酔と静への深い沈潜に憧れがやまない。
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この作品は、丘のうえの小さな写真館の庭の白樺を写したもの。ただ、写真はこうしてカメラを構え、雲が渡る空を美しいと感じながら、写せばよいわけである。しかし、いくら結果が同じ写真になったとしても、写した本人の心の状態が違えば、写真は違ったものになるはずだ。自然界をある程度知れば、綺麗に撮るくらいなら誰にでもできる。自分の思い入れを作品に活かすくらいなら誰にでもできる。本当に難しいのはそんなことではない。この作品なら自分が人間ではなく、白樺になり、空になり雲になりきらなければ本当に優れた作品を生むことはできないだろう。誰かに見せる作品をつくるのではなく、自分を納得させる会心の一枚がどうしても必要なのだ。会心とは自分の心と会うこと。会心を得るために、また、更に生きていこうというのである。 |
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庭に咲いたクリスマスローズ 3/27
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庭に咲いたひな菊 3/27
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●NO5
今月の作品は、春を先取りした作品。どちらにも春の陽気を感じてほしい。特に、多彩な春の雑木林の作品には思い入れが深い。この樹木の輝きと可愛らしさは決して本州のものでなければ、ここより北の雰囲気ではない。北海道の道南独特の雰囲気を持つ。このような作品を見ると、僕はいつかきっと心を静かにして、もっと色濃く季節と対峙していたいという気持ちになっていく。もっと静かに、もっと丁寧に澄んだ心で風景を写していきたいと心に誓う。
もう一作品は、春のまだ葉のでない木の梢でさえずる鳥の作品。今年、僕は冬の間中、庭のえさ台に鳥たちのために餌を運んだ。僕が穀物を、慶ちゃんはもっぱらリンゴを運んだ。そしてその餌をたよりに、真っ白に雪が地面を覆っている間中、鳥たちはえさ台を訪れてくれた。特に思い出深いことは、ある一匹のヒヨドリのことである。ある一匹のヒヨドリなどは一日のほとんどを丘のうえの小さな写真館の庭で過ごすほどになったのである。そして朝、リンゴがないと言わんばかりに、彼はぴ〜!と桜の梢に止まりながら甲高く鳴くことを日課にした。そして彼はリンゴをたらふく食うと、お気に入りのナナカマドの枝の隙間にとまって休んだ。そして時折、アカゲラが訪れると、つつかれることを怖がってなのか、アカゲラにリンゴを譲った。こんなことも雪がなくなって春の陽気が差し込んでくるとまるで夢だったかのように今の庭はし〜んと静まり返っており、その代わり春の日差しが眩しく降り注いでいる。 今かのヒヨドリはどの森に住み、どの梢でさえずり、何をついばんでいるのだろう。春が来たのである。鳥にも人にも長い冬を耐えた者みなに等しく春の日差しが降り注いでいる。年を経るごとにこの寒い冬を越えることは、本当に大変なことだと思うようになる。鈍い灰色の時は去ったのである。生きる者みなその全身に、生きていくためのエネルギーが充電される。さあ、出ていこう。この美しき広い世界へ!飛び立とう、あの陽光の中へ。ためらうことは何もない。 季節が新たな息吹を吹き返したのだ。人とていつまでも眠るばかりではない。頂に白銀の雪を抱く、雪山が君を待つ。大地から吹き出る春の命が君を待つ。この充足の中で、心は一つとなり、高揚する。季節の胸元は君に開かれているのだ。さあ、迷っている暇はない。心を一つにまとめて、開かれた一本の道を進んでいこうではないか!
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●追伸1
先月、北国通信の方から、お手紙をもらった。そのお手紙の中に、金星が今綺麗に見えてますね!という一文がありました。そして、最近旧暦に興味がわいてきたことなどが書かれてあり、北国通信を通勤の満員電車の中で読んでいることなどが書かれていました。
こんなお手紙をもらうことは、何よりも嬉しいことですね。共感してくれる人が一人でもいてくれることの幸せを噛みしめる瞬間です。
そうです。疲れたなあ、と思い、会社の帰り道ふっと見上げた西の空に明るい星が輝いていて、それが金星なのだと知っている楽しさ!こんなたわいもない小さな楽しさが人生にはどうしても必要なのだと思うばかりです!何も星だけではありません。札幌の写真展の時、常連の女性の方が言っておられたことを思い出します。「私は、通勤途上にある公園の樹木の移り変わり、職場の建物のツタの季節の移ろいがあったのでこの会社で今までやってこれたと思う」というのです。いつも、励ましてくれる季節が隣にいれば生きていける。僕はそう思います。移ろいやすく、根のない現代にあって、どうしても必要な普遍性、それは身近な自然をおいて他にない。そんなふうに思えるのです。星空のことに話を戻しましょう。さて、この春は金星だけではありません。何と西の空から順番に、金星、月、火星、土星、それに木星までがずらりと並んでいる。その昔、学生の頃、徹夜で友達と話した夜明け、東の空にずらりと並んだ太陽系の惑星たちを見たことをいまだに良く覚えている。 こんな中、星空観望会のお話があったので、望遠鏡を持って出かけてきた。いつもよりは大勢の人が来て、それぞれの想いを抱いて盛り上がっていた。月のクレーターを見た子供は「気持ちが悪い」と悪言をはけば、その友人は綺麗だという。そしてこれが気持ちが悪いなんて、おまえおかしいじゃないか!と叱責する。人は色々な想いを重ねいつの間にか大きく違っていく。まるで、人生は扇子の根元から方々へ走りゆくレースのようだ。時を重ねるごとに、またその違いが広がっていく。
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●追伸2
先月の北国通信でも少し触れたと思いますが、今、合間
を見つけて着々と暗室を館の片隅に造っている。これは慶ちゃん
がかねてから願っていたことで、いつかは白黒写真を撮ってみたいということからきている。白黒写真。これはモノクロ写真とも言う。モノクロ写真の特徴は、フィルムが安く、現像を自分でできるので、費用がかなり安くすむ。しかも、この現像、カラー現像のようにシビアさがないために、設備がほとんど必要がない。現像をする時間があればそれで事足りる。フィルムも限りなく安く、一枚あたり、現像まで入れても8円くらいだろうか。しかも、これをまともにプリントすれば、一生に匹敵するほど長時間に渡り品質が維持される。つまり経年変化が限りなく少ない。昔の白黒写真でよくセピア調になった写真を見かけるが、現在の現像試薬の力を持ってすれば、数十年セピアになることはない。しかし、白黒は難しい。自然界の色が全て白と黒という2色に置き換わる。しかも、フィルムは青に偏って感度があるなどくせがあるなど。また、風景を白黒で、となるとより大きなフィルムが必要になる。もちろん、人を撮る程度ならばそんな必要はない。しかし、いずれにしても、白黒という2色に置き換えるという特殊な撮影では、カラー写真のようなごまかしは許されない。確かに、カラー写真の場合でも、カラーバランスがとても大切なことで、レンズはカラーバランスが要求される。つまり、どの色も均等にレンズを通過させフィルムに像として結ぶ能力が必要とされる。ところが白黒写真ではどの色も均等に通すカラーバランスの能力は必要とはされないが、その代わり、諧調を微妙に写し分ける能力が試されることになる。つまり、近似した緑とちょっとうすい緑があったとして、カラーバランスの良いレンズはこの微妙な緑を忠実に写し分ければよい。しかし、白黒の場合この微妙な色の差をわずかの差を持ったグレー色に置き換える能力が必要であり、このためには、どうしてもカラー写真と同じレンズを使えなくなってくる。
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●NO6
そこで、慶ちゃんは僕の意見を参考にカラー写真は今まで通りニコンで撮影し、白黒はライカというカメラで写すことにした。レンズは古いエルマー50mmf2.8というレンズにし、当面はこのレンズ一本で行くという。ライカ(leica)という名前はどこかで聞いたことがあるかもしれませんが、実に上品なカメラで、見てもこの良さはわかるものではなく、手のひらに載せて、触ってみないとわかるものではない。特にシャッターを押した感触はたまらないものがあり、レンズも諧調が豊かであると言われる。 主な特徴は最近のカメラ(一眼レフという)と比較して、その内部にミラー(鏡)がない。そのため、いやなミラーショックがなく、実に心を揺さぶるような余韻を残しながらシャッターが切れる。また、このミラーがないためにレンズ設計に自由度が増し、非常にコンパクトなレンズになる。その代わり、レンズを通ってきた直接の光りを目で確認しながら写すことができないために、臨場感に乏しくなるし、超広角レンズや望遠レンズ、接写などが苦手なカメラである。しかし、得意不得意はあるものとして、僕が考えるに、白黒でまともに諧調を出せるのはライカかツアイスくらいだろうと言って、慶ちゃんにライカを勧めた。ライカはドイツのカメラで、値段は驚異的に高い。僕の父などは、ズミルックス50mmF1.4のついたライカM4-Pを40万円ほどで購入している。その昔高価すぎてなかなか手が出せなかったライカだが、今では当時から見れば信じられないほど安くなっている。誤解のないようにしてほしいのは、ライカは別にクラシックカメラではなく、れっきとした現役で仕事をこなすカメラである。特にレンズをのぞき込んでみると、そのガラスの圧倒的な透明感に固唾をのむ。別に最高級のガラスを使っていると、喧伝するというわけではなく、何も言わずに世界最高のレンズを造ってくるのがライカ社の方針のようである。このあたりが、ニコンを含め、国産とは大きく違う。国産のカメラやレンズの巧みで過剰な広告はもうこりごりである。何々というすばらしいレンズを使ってるんですよ!何々という技術を駆使してるんですよ!と高らかに宣伝するが、実際使ってみると、大したものであることはほとんどない。とにかく、春を目前にギリギリのところで慶ちゃんもこうしてライカを手にし、これから白黒写真の道に踏み出すことになる。どのような結果が待つか、乞うご期待あれ。
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ライカM6とエルマー50mmf2.8
ライカにはこの他にM2,M3,M4,M5.M7などがある。このM6はその中で最も一般的なもので、 露出計が付いている。
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ニコンの鏡室
レンズを通ってきた上下左右逆像の光りをこのミラーにあてることでまず上下が戻り、更にNikonと書かれたプリズムを通った光りはここで更に左右が戻され、結果的に正立像に変換される。レンズを通った上下左右逆像の光を目で見たとおりの正立像にしたいという願いがこのような一眼レフカメラを造らせた。自然の成り行きだ。しかし、逆にこのことが様々な障害を引き起こすことともなる。例えば、ミラーが写すときに移動するために、そのショックのために、画質が落ちるとかレンズがバカでっかくなるなどである。
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ライカの内部
ミラーがない。そのためにレンズを通ってきた光を見ることはできない。それで画右側の黒い四角のところからのぞく。レンズの焦点距離にあわせて白いフレームが出るので、この四角の範囲が写る範囲と思えばいい。ミラーがないために驚くほど静かで、品のあるカメラである。自然と対峙する間合いを保つにはこのライカは最適である。また、触ってみるとわかるが、金属に巻かれた皮のためか、金属を触っているというのに、手の先に暖かさを感じるから不思議だ。
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真ん中の銀色のレンズがライカのレンズ。左隣が慶ちゃん愛用のマクロニッコール55mm。で右隣が僕の愛用するニッコール28-70mmf2.8ED
というレンズ。これらと比べるといかにライカのレンズが小さいかわかってもらえるでしょう。
おまけにこのエルマー50mmは沈洞式といってレンズの細くなったところがす〜っと中に入ってより小さくなるのですよ。 |
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