の世界
第98号 初めての本州撮影 2004年6月
奥入瀬渓流
●NO1 JUN.2004

この6月は一ヶ月間本州(日本)の撮影に出かけた。本州を撮影するということは難しい。これからこの困難に立ち向かって行くべきかやめるべきか、それは今の僕にはわからない。しかし、その困難に立ち向かっていこうとする気持ちの方が強いことは確かで、今回の旅はその第一歩となる。とにかく、日本の撮影については右も左もわからないので、今回は比較的撮影しやすいと考えた東北を中心に予定を組み、実際に撮影を進めながらその手応えを感じていくことにした。
 まず、函館では本州の詳しい情報を手に入れることは不可能なために、比較的情報のわかりやすい滝や渓谷、また国立公園に指定されているところ等を順次撮影しながら、南下していくことにした。しかし、これから話を進めていくとわかると思うが、日本はことの他広く、そう簡単にはいかないことが徐々にわかり始める。当初、一月間の予定で、途上神戸の実家を中継点として6月の前半は神戸以東を、6月の後半は神戸以西を撮影しようと考えた。また、このような縦断の旅は初めてだったので、作品づくりよりも日本を広く知り、感じることに重点を置こうとした。しかし、作品づくりどころか、結果的に一ヶ月ほどで日本を知るなんてことが到底不可能であることがわかり、神戸より西の撮影は断念し、時期をあらためて出直すことにした。
 このような西日本撮影の断念の背景は別に消極的な気持ちが芽生えたわけではなく、むしろその逆に、旅を続ける中で、当初考えていた以上に、日本にはまだ多くの魅力が潜んでいることがわかったためで、時期を改めて、再び挑戦するほうがかえって良いという、結論を下したのである。従って、これから記していく撮影の旅はおおむね東北地方での撮影についてであり、その後のことについては、また別の機会にゆずることになる。
 さて、僕たちが旅立ったのは、6月4日のこと。5月末、利尻礼文島の撮影に出てから南下し、文字通り北から南へ日本列島を縦断したいという希望は慶ちゃんの反対で実現しなかった。それで、仕方なくそのような縦断の旅は次の機会に譲り、函館港を6月4日の午後1時過ぎのフェリーで下北半島 大間へ渡る。下北半島の大間崎というのは日本の最北端で、ここから本州最南端の九州の佐多岬まで行けば、なんとなく切りが良い。しかし、これでは、日本を北から南に縦断したとは言えないので、このような旅は別の機会に譲ることにした。しかしこの南北に長い日本列島の縦断に関して「どの時期に、北に向かうのがいいのか、南に向かうのがいいのか?」という判断は今の僕にはつけることができない。例えば今回の旅のように、北から南に向かえば、季節の流れを逆流することになり、季節は飛ぶように過ぎていく。しかし、その逆に北上すれば、季節はいつまで経っても変わらないだろう。また、緯度で言えば、利尻礼文のある北海道の最北端は北緯46度。九州の最南端は北緯30度。沖縄西表島まで考えれば北緯26度で、その緯度の差約20度。 1度で約111kmだから26度の差を距離に直すと、約3000kmということになるわけだ。3000kmなら、1時間に60kmのペースで走れば50時間もあれば着く距離だからそんなに遠くない。こう考えると日本などとるに足らないようだが、実際にはそんなに簡単ではない。2週間かけて、それもかなりのペースで走ったつもりでも、僕たちの到達したところは能登半島あたりでしかない。予想通り、この2週間の南下時、季節は飛ぶように過ぎ、途中からよくわからなくなってしまっていた。もうなすがまま、目の前を通り過ぎていく風景に身を委ねて、写し続けて行くほかなかったのである。  しかし、この「季節の迷走」は終わってみれば快感でもあり、理詰めにやって来る季節の糸を断ち切ってしまうということは新鮮な時間の経過でもあり、驚きにもつながっていく。もういっそ、このまま走り続けて西表島まで行こうと何度も思ったが、当初7月上旬に北海道に帰ってくる予定だったので、その呪縛から逃れることができなかった。この北から南への大迷走の旅はいつか実現することとして、まずは、今回はやんわりとした旅に終始する。
 大間崎には何度か来たことがあった。その昔は、大間崎から東に進み、尻屋崎に行った。この旅では尻屋崎に行かずに下北半島を南下し、以前から行きたかった仏ヶ浦に向かった。仏ヶ浦は奇岩が連なる海岸線が美しいと聞いていたので、是非くわしく見て行きたかったが、結局時間の関係で通り過ぎることにする。まず仏ヶ浦で本州最初の夜を迎え、次の朝早くに仏ヶ浦を出て下北の西岸を海岸線に沿って南下する。下北半島の西岸は、斧の刃に当たる部分でその最南部には下北郡 脇野沢村(わきのさわむら)がある。脇野沢村にある北海岬は本州最北の野生猿の生息地として知られているが、僕はそのことよりも、脇野沢村の薪での生活や漁港の素朴さに心引かれた。一般に青森県の北部にあたる下北半島や、津軽半島に行くと今でも薪での生活が目につき、家々の先には薪が高く積まれている。

脇野沢村のひなびた漁村風景。写真に撮れる漁港と出会うのはなかなか大変なことだ。旅の楽しみの一つは絵にならなくても、こうした雰囲気の風景に出会えるというところにある。
下北半島や津軽半島の村々では、こうした薪を積んでいる民家が多い。
●NO2 JUN.2004

脇野沢村のひなびた漁村風景を味わった後は、川内町(かわうちまち)にあるひな菊が校庭一面に咲く宿野部小学校を撮影し、陸奥湾を南に見ながらむつ市に向かった。いつも地図で見ていると小さな陸奥湾であるが、実際に見ているととても大きくて、いったいどのように見えているものなのか、地図と頻繁に見比べながら先を急いだ。むつ市で買い物を済ませ、再び北上し、薬研渓谷(やげんけいこく)に向かう。薬研渓谷はたいした渓谷ではないが、そこにある夫婦かっぱの湯に入りたいと、慶ちゃんが長いこと願っていたので、その願いをかなえるために向かった。しかし、夫婦かっぱの湯はその昔来たときには無料だったが、この春から有料となっており、僕たちは力を落とした。気を取り直して、しばし暮れゆく渓谷を見ながら温泉に入る。その夜は夫婦かっぱの湯の前の駐車場で眠ることにしたが、夜中過ぎに若者の暴走車が駐車場に来たので眠れなくなり退去し、渓谷を更に上流へさかのぼる。一般に最近の暴走車は舗装路や舗装された駐車場を走り回り、少しでも砂利道になっているところにはやってこない。車内で眠る場合には、できるだけ山奥の砂利道の先にある広場が安全で、いわば砂利道は日本のオアシスといったところだ。しかし、この夜中の退去は、偶然にもすばらしい光景をプレゼントしてくれた。薬研渓谷を更に奥に入った奥薬研渓谷の見知らない広場にやってきた僕は、月光が夜霧に幾筋もの光の筋を描き出した浮世離れした神々しい光景を目の当たりにする。僕は早速撮影にかかったが、いつものことながら露出がわからず、この美しさを残せるかどうか、終始不安が心を覆った。しかし、目の前に展開される光景はあまりに神々しいもので、この世とあの世との差がなくなったようでもあり、撮影している途上、何度も気が遠くなりかけた。渓谷を形作る深い山々の更に奥に月が傾き始めると、朝の気配が漂い始める。終始、ホトトギスが鳴き交わし、和んだ時間がとうとうと過ぎていく。僕は、夜明けが来ることを恐れて、撮影を半ばで切り上げ、車に帰ってそのまま寝眠りについた。   朝起きてからは薬研渓谷をしばらく撮影したが、あまり気に入った風景と出合えないまま過ぎ、そのまま国道279号線に戻る。国道279号線は快適な道で、気持ちよくむつ市に向かって南下する。むつ市を通り、下北半島を大急ぎで南下。目指すは八甲田である。八甲田へは東部にある上北郡 七戸町(しちのへまち)からアプローチする。別に東部からアプローチすることにこだわっていなかったが、結果東部から接近、八甲田連山が眼前に展開したときには、大歓声をあげるほど感動した。まず東部の街、七戸町(しちのへまち)から八甲田山に向かうと、視界が開けると同時にそこは広々とした牧場になっており、その牧場に点在する美しい樹木とそこから垣間見る残雪の八甲田連山はそれは美しい。その日は、あいにく夕方にさしかかっており、撮影することはできなかったが、時期と天候をはかれば、かなりの風景が期待できるだろう。そのような未来への夢を抱きながら、牧場越しに八甲田連山を眺めていた。牧場は少々高台に造られており、その牧場を西側に下ると、そこは八甲田山の東麓に広がる田代平(たしろだいら)という広場に出る。田代平ではレンゲツツジが美しく咲いていたのでどきどきしながらそのまま田代平北側にある湿原に向かう。天気からすると、撮影にはむかなかったが、見学のつもりで田代平湿原にひかれた木道をぐるりと回ってみた。田代平湿原はレンゲツツジと湿原のむこうに見える八甲田連山の山並みが綺麗だと聞いていた。確かにその組み合わせも綺麗だったが、それ以上に今はワタスゲが盛期でそれが見事だった。穏やかな湿原とそこに咲く綿帽子のワタスゲの織りなす雰囲気は穏やかそのものであり、沈みゆく淡く黄色い太陽がその場の雰囲気を更に穏やかに見せてくれた。また、日暮れ近くなって夕風が吹き始める頃になると、たいていの観光客の方々は湿原を去り、たいていは僕たちだけ残るのが常なのであるが、この夕刻だけは少し違っていた。穏やかなその環境のせいなのだろう。ぱんぱんに太った女性が二人カメラを持ち、世間話に花を咲かせながら夕日が赤く染まるのを待っている様子だ。どうみても、彼女らが写真を撮ることを趣味にしているとは思えないような雰囲気であったが、彼らが手にしてるのは、キャノンの高級カメラである。僕はこの妙な組み合わせが不思議で、気付かれないように何度か彼女たちの方を見ては、内心微笑んでいた。その後は、八甲田の地理についてよくわからなかったので、大まかに八甲田を見て回り、その途上で見つけた谷地温泉という温泉に入ることにした。値段は安く300円。湯船から壁や床まで総ひのきづくりの長い伝統のある温泉の様子である。結果、この温泉はこの旅で一番お気に入りの温泉となり、次の日に入った蔦温泉と共に、これで八甲田撮影の基盤ができた。長い撮影の旅では温泉とスーパーと安心して眠ることができる場所が大切なのだが、ここ八甲田ではどれも文句のないすばらしい環境だった。
 次の日は、南八甲田連山の東側にある蔦沼を一日かけて撮影した。言い忘れたが、八甲田連山は北と南に分かれ、北側が北八甲田連峰、南側が南八甲田連峰になる。一般に有名なのは北八甲田連峰の方で、南の方はあまり注目されていないようだ。しかし、注意深く見ていくと、南八甲田連峰の方がより大きな魅力が見えてくる。まだ、確かなことは言えないが、車から樹木の様子や山の深さなどを垣間見る限り、南八甲田の方が大きな魅力を持っているという様子がある。このことは、これから楽しみなことである。 さて、この日は蔦沼を一日中撮影する。蔦沼はその周辺にあといくつかの沼があり、そのいくつかの沼には、その沼を巡る美しい散策路が整備されている。どの沼もすばらしいのだが、中でも一番最後に現れる菅沼(すがぬま)は実にすばらしいところだ。今まで色々と沼を見てきたが、これほどすばらしい雰囲気を持った沼はそうあるものではなく、最上級の雰囲気を持っている。沼の回りにはほぼ一周できる道があるが、沼のどこにいても、幸せな気持ちに包まれる。こんなところを「聖域」と呼ぶのだろう。

蔦沼巡りのハイライトとなる菅沼。
●NO3 JUN.2004

沼を全部回り終えたときには、もう5時を過ぎていた。疲れたので勇気を出して蔦温泉に入ることにする。蔦温泉は由緒正しい温泉で、見るからに高そうだった。しかし、実際に入る段になって、恐る恐る「おいくらですか?」と聞いてみたら、何と「400円」というお答え。「え?僕らでも入れる値段じゃないか!」と胸をなで下ろして、蔦温泉に入る。  昨夜の谷地温泉と同様、湯船、床、壁共に総ヒノキづくりで、伝統を感じ、そのすばらしさに感激。ますます八甲田が好きになった。
 次の日は念願だった、奥入瀬渓流の撮影に向かう。天候も雨模様で、渓谷を撮影するにはもってこいの状況である。 その日一日駆け回って、奥入瀬渓流を撮影する。奥入瀬渓流を撮影することは僕の長年の夢であり、この日とうとうその夢を果たした。僕はその昔見た奥入瀬渓流の写真のあまりの美しさに、子供ながらに歓喜した。あれから20年もたったのだろうか、僕は奥入瀬渓流の美しさに導かれるように写真家になった。しかし写真家として活動するようになってから一度も奥入瀬渓流を写せないでいた。その積年の夢をこの日果たしたのである。確かに奥入瀬渓流はすばらしい渓流だった。予想を遙かに超える水量に圧倒され、樹木の深さにも驚いた。観光地といえば俗化していることを常とするが、ここはまるで違った。また、たいてい美しい世界に近づくためにはそれなりに苦労をともなうものだが、ここ奥入瀬渓流はまるで苦労せずに、流れの側まで行け、のどかに、実に穏やかに、一流の水の流れを感応できる。実に不思議なところである。
 奥入瀬渓流を撮影した次の日は、睡蓮沼から北八甲田を狙ったが、予想に反して撮影できなかった。しかし、睡蓮沼も実に穏やかで静寂な沼で、すばらしいところだった。あまりに穏やかだったので、昨日の撮影で濡れたカメラやレンズを乾かしながら、ぼ〜っとしながら睡蓮沼と北八甲田連峰を眺めていた。しかし、いつまで待っても撮影できないので、重い腰を上げて八甲田の撮影を切り上げて、更に南下を開始した。次の目的地は「八幡平」である。
 その途上、十和田湖を通り、十和田湖の南部で3つの滝を撮影してから鹿角市(かずのし)を通り、八幡平に向かった。八幡平は色々とガイドブックを読んで調べていたが、その実態がつかめず、実態を知りたいという思いが強かった。

●NO4 JUN.2004

八幡平へ北から行くには鹿角市(かずのし)を通る。鹿角市その東部を小高い山稜に阻まれるが、その郊外では比較的広々とした田園風景が見られ、そののどかな田園地帯一帯では6月初旬、アカシアの花が盛りで、至る所で白い花房を枝一杯に垂らしたアカシアが咲いていた。何カ所かでアカシアの花を撮影でき、上機嫌で鹿角市を抜けると、すぐに八幡平が迫ってきた。日はすでに西に傾き、夕刻の気配が漂っていた。とにかく明るい内に、八幡平なるものがどうなっているものなのかを見てみたかったので、大急ぎで八幡平を縦断しているアスピーテラインと呼ばれる県道を走り、高度を上げながら八幡平の核心部に向かった。アスピーテラインをひた走ると、高度はぐんぐんと上がり、八幡沼のある頂上付近では高度1500mほどにもなる。アスピーテラインの左右では残雪が残り、ちょうどダケカンバが新緑を始めた頃だった。ダケカンバの新緑などそう簡単に見られるものではなく、明日もし晴れたら写したいと考えながら、車を走らせた。その日は、西方彼方に沈む夕日を撮影し、よくわかないまま「ふけの湯」という温泉に入ることにする。ふけの湯は実に古びた実に巨大な温泉だったが人の気配がなく、少々不気味だったが、勇気を出して入ることにする。
 次の日は再び八幡平とはどんなところだろう?と思いながら車を走らせ、岩手山の北部に至る樹海ラインまでぐるりと一周した。途上、太平洋側の村、松尾村へ少し下ったところにある「松尾鉱山後」を見て、この道の目的が少し分かった気がした。その昔、八幡平で何かの鉱物が採掘できたのだろう。この道はその名残を観光的に整備したに違いない。という予想である。真実のところは、今だ調べていないのでわからないが、撮影自体はそんなにめぼしいところを見つけることはできず、結局ダケカンバの新緑と熊沼と呼ばれる沼が目を引いたくらいだった。しかし、この日見たダケカンバ程美しいダケカンバは今まで見たことがなく、そんなに強くない日の光の中で、一本一本が光り輝いていた。 ダケカンバの葉は緑白色で若々しく、残雪の白と青森トドマツの黒との対比が見事だった。観光的には八幡沼の方が有名だが、実際は道路脇の熊沼の方が僕には美しく見えたので、撮影は熊沼に集中した。こうして八幡平をぐるっと一周した後、八幡平を下り、急いで近くにある曽利の滝に向かった。
 曽利の滝は見事な滝だったが、その道中の道は険しく、細心の注意を必要とする。もし行かれることがあったら、くれぐれも注意してほしい。曽利の滝を撮影した後は玉川沿いに南下し、田沢湖に向かった。この途上、あまりに眠かったので、慶ちゃんに運転を委ねて眠ってしまい、その途上にあった玉川の様子を見ることができなかった。後でわかったのだが、この玉川途上にある秋扇湖等は美しいところらしく、今とても後悔しているが、このあたりはもう少しゆっくりと訪れるに値する地域だと思うので、このあたりの詳細はまた次の機会にしたいと思う。 眠っている内に、田沢湖のほんの東側を通りかかった僕たちは、ほんの軽い気持ちで田沢湖に向かった。別に通り過ぎてもよかったのだが、夕暮れまでまだ時間もあったし、すぐ近くだし、そんな軽い理由で田沢湖に立ち寄った。車を走らせ、その湖畔に出たとき、一本の柳の木が目に留まり、さわやかな湖畔の風を感じて僕は目を覚ました。日は西に傾いていたがその宵はまだ白銀の色彩に染まり、湖畔の柳の葉は美しく輝き、湖面の波は青白く波立っていた。また、湖畔を埋める草本は北海道のそれと違ったもので、穏和でやさしい風情を感じさせながら風にそよいでいた。僕は日が山際に隠れるまでのしばらくの間、湖畔に立つ柳の木を写し、田沢湖を後にした。偶然立ち寄った田沢湖という湖。どうしてこの湖がここにあるのか?いったいこのあたりはどういうところなのか?何も知らない僕たちだったが、偶然出会った田沢湖での幸福感にしばし満たされた。よくわからないのだが、この田沢湖近辺は幸せな雰囲気に満たされている。それがどういうものなのかわからないので、もう少し調べなおして別の機会にここを訪れてみたいと思った。

松尾鉱山跡
田沢湖で出会った一本の柳の木

●NO5 JUN.2004
次の日は、予定通り抱返渓谷に行く。抱返渓谷は田沢湖の南、角館市郊外にある渓谷で、渓谷の水の色がエメラルドのように青く透明であることでその名を知られる。このこと以外はよくわからないところだったので、わからないまま渓谷の案内に沿って入っていく。渓谷の途上小さな巣堀のトンネルを数多く抜け、野性味ある素敵な散策路だった。しかし、渓谷道途上にある回顧の滝を撮影途上、カメラを壊してしまい、先に進むことができなくなってしまった。巻き上げができなくなり、レンズがはずれなくなってしまったのある。ハッセル特有のこのトラブルは初めてだった。このままレンズがはずれなくなってしまったら、これから旅を続けていくことができなくなる。一大事だった。急いで車に戻り目星をつけていた部分にマイナスドライバーを差し込んで回してみた。すると嘘のように巻き戻すことができ、レンズもはずすことができたのである。この時は、嬉しかった。ほっと胸をなでおろすだけでなく、もしこんな致命傷を持ったカメラなど使っていけないと考えるからだ。しかし、このトラブルに対して、救急に対処できることがわかってほっと息を付いている。抱返渓谷はこのトラブルのために最後まで撮影することができなかったが、回顧の滝はともかく、この渓谷の雰囲気の良さは本物であり、その実感をつかんだだけでも十分だった。要は、こんなところ2度と来るものか、と思うか、何度でも来たいと思うか。その見極めをつけることは重要なことなのである。抱返渓谷が予定より早く終わってしまったのでこの旅のハイライトと考えていた鳥海山に向かう。鳥海山は秋田県南部と山形県北部の県境、日本海沿いにある山で、何も知らなかった僕はここを旅のハイライトと位置づけていた。
 例に漏れず、まずは鳥海山の山麓をぐるりと調べまわることから始めた。しかし、手元にあった資料だけでは最良の場所を探し出すことができず、結局いいところまで行っておきながら、撮影どころか、その場所に立つことさえできないまま鳥海山を後にしてしまう。悔しいことだが、函館に拠点がある限りこれが限界だろう。
 そのことはともかく、まずは、鳥海山東部に位置する法体の滝(ほったいの滝)から撮影を始める。法体の滝は前評判が高い滝だった。しかし、実際に行ってみると、その回りは開発し尽くされていて、驚いてしまった。滝そのものは悪くはないが、その回りとの不調和には驚いた。法体の滝を撮影してから鳥海山に東側から近づいていった。東側から近づくことは偶然だけれど、後でわかったことだが鳥海山は東側から見る山容の方が雄大に見える。ともかく撮影できるような天候ではないので、その日は鳥海山の回りをできるだけ見て回った。地図を見ながら撮影できそうなところを割り出していくのである。夕刻近くになって鳥海山北部の仁賀保高原というところに点在する沼の北部から撮れないか?と思い、そこに向かったが、すでにあたりは薄暗く、細かく見て回ることはできなかった。しかし、神戸に帰って調べてわかったのだがこの仁賀保に点在する沼から見る鳥海山こそ、最高の撮影場所であることがわかるのである。せっかく良いところまで目星をつけておきながら、場所を発見できなかったことが悔やまれる。多分、沼のぐるりが水田として開発されて、容易に沼に近づけなくなっているのが発見できなかった大きな理由のような気がする。こんなところに日本の撮影の困難さを感じる。地形図を読むだけでは、撮影場所を探り当てることはできない。もっとじっくりと腰を据えて見ていかなくてはならないのだ。確かにあのとき、沼を目当てに行ったが、そこに沼へ通じる道はなく、水田と牧草地があるのみだった。  次の日は、別に何の期待もないまま鳥海山西麓にある元滝に向かった。この滝についても予備知識はなく、ただ、どこ
かの川の伏流水が滝になっており、この近くの人々の飲料水になっているという程度の知識しかなかった。そのため、何の期待もなく元滝に朝一番で向かった僕は滝に着いて驚いてしまった。その滝の落ちる渓谷は苔むし、幽玄の世界をかもし出していた。僕は滝そっちのけで苔むした渓谷の撮影にかかり、3時間ほども撮影していたそうである。
本人はその気がないのだが。夢中になると時間の経過がわからなくなる。しかし、何も期待せずに行ったところでこんな刺激的な美しさに出会うと、疲れてしまう。嬉しい悲鳴なのだが、もう少し心の準備をさせてほしいものだ。
 元滝の渓谷を撮影してから、晴れていたのでこれ幸いとあきらめていた鳥海ブルーラインを上がる。この道は、鳥海山西部につけられた実に美しい道で、前方には鳥海山、後方には日本海が広がっている。僕はここもまた様子見程度の思いで鳥海ブルーラインをのぼり、鳥海山西部を見渡すことができる、鉾立(ほこだて)というところまでやってくる。ここより上へは登山道が伸びており、車はここに置いて、登ることになるのだろう。しかし、鳥海山初めての僕の目には、ここ鉾立からの光景で十分に期待以上だった。調べていたことといえば「奈曽川が刻んだ、深い渓谷が見られる」ということに過ぎなかったが、実際に何も期待しないで行ってみると、そのすばらしさに言葉を失う。特に、断崖から落ちる白糸の滝は僕が理想の滝の姿の一つとする雰囲気を持ち、遠く聞こえる滝音は、奈曽川渓谷の深い谷間にこもるように響き、それが時折吹いてくる風に乗って僕の耳に残響した。

奈曾渓谷に落ちる白糸の滝。遠くから滝音が響いてくる。
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