僕は「風の岬」というテーマで北海道の岬を撮影し続けています。
立待岬は丘のうえの小さな写真館から最も近い岬で、なぜか親近感をもつ岬です。
だから立待岬を撮影するということに不思議なほど切迫感を感じず、最もほっとする撮影地のひとつなのです。
しかし、また風の強い日もあって、
人間が風に飛ばされない限界の強さというものも実体感できます。
そんなときは岬に向かってレンズを向けるのもやっとだというのに、
悪いことに潮風が波の滴を運んでくるのです。
そうなるとたちまちの内にレンズが白く雲ってしまい、
撮影不能に陥ります。
上からの雨などは対処できても前から風に乗って立ってくる波しぶきだけは手に負えない。
だけど、そういった限界状況ぎりぎりのところに立たされたとき、
初めて人は自分と戦うことを知って命の静かな燃焼を感じるのだろう。
少し誇張した表現を用いると
人は限界状況に立たされたとき
「その人の背負っている人生の重さを試している」のではないだろうか。
いずれにしても岬には人に人生を考えさせる何らかの作用が働いているとは考えられないか。
荒れ狂う津軽海峡の波にうち続けられても、
その海峡に突き出ようとする激しい断崖の力強さ、
そこにあってはこそくな生活の知恵をまとったふしだらな人のよるすべもありはしない。
激しく積極的に自分や他の人々の生の流れを
「今、ここに」と強い決意で受け止めようとする者だけを岬はやさしくむかえいれよう。
夕闇迫る頃の断崖にカモメが舞い、
明けゆく空には清澄なる月が光る。
岬こそ父なる大地の果てるところであり、
母なる海との偉大なる接点なのである。
そう、全ての者が父と母から生まれ、育まれ、
彼ら二人を故郷と想うように人は人生の途路に岬を懐かしき父、母と慕うのではあるまいか。
短き自分の人生のはかなきを知り得たその日から、
岬は彼の感傷と感慨の父となり母となるように思えてならない。
このように岬、いや立待岬を語ろうとするとき、
そこに足を止めた一人の女性を思わずにおれない。
人は思いの強さに応じてそこに足を止める。
すなわち、究極的には人生そのものをかけるわけであるが、それが人によって異なっている。
立待岬に接して一生をここにかけようとする人がいるかと思えば、
観光でここを訪れ、見るものも感じるものもなくここを通り過ぎていく人もある。
その両極の間をさまざまな人がさまざまな思いを抱いて通り過ぎていくのであろうが、
岬はそれらの思いの全てを飄々として受け止めている。
「来るがよい。止まるがよい。また、去るがよい」と。
永劫不動たるその態度に僕は知らず知らずの内に
海のかなたにある故郷の思いを重ねていた。