の世界
119号-2 『夏の列島5000Kmの旅から』 20068
東京大学の赤門のすぐ前にある「浜野顕微鏡店」。小さな店構えだが、日本唯一の顕微鏡の専門店である。しかし、この店も浜野さんの代で終わりだそうで、浜野さんが店をやめると、日本から顕微鏡専門店が消える。
■8月5日 浜野顕微鏡店にて
 
浜野顕微鏡店  4年ぶりの来訪である。
今度買う顕微鏡は「実体顕微鏡」というミクロの世界を立体的に観察できる顕微鏡である。ちょうど倍率で言うと、8倍〜100倍くらいの大きさで物を拡大してみる顕微鏡で、目に見えないような小さい物を見る顕微鏡とは違って、より身近な物を見る顕微鏡である。
 今から4年前、顕微鏡店の店主、浜野さんが一言、「ライカの顕微鏡はよく見える」と一言つぶやいた。そして、その一言を聞き漏らさなかった僕たちはその一言を4年間暖め続け、実体顕微鏡を買うならライカの実体顕微鏡を!と、思い続けてきたのである。
 しかし、肝心の資金にはめどが立たぬまであったが、このチャンスを逃すことはできなかった。実際僕たちが購入したライカの実体顕微鏡は中古とはいえ、ライカのショールームから来た、出所のはっきりした物だったのである。

僕らが購入したライカの実体顕微鏡はMZ125という、ライカの実体顕微鏡の中でも上位機種で、しかも中古ということもあって、かなり贅沢な仕様になっている。金額も相当なものであったが、ここまで来ればやけくそである。何とかするしかない。迷っている時間はなかった。
 とうとう、ライカの顕微鏡である。分不相応なのは十分わかっている。しかし、浜野さんから買うのでなければ僕たちは絶対に買わなかっただろう。浜野さんからだからこそ、買うのである。浜野さんほど信頼できる人もいない。あとでどんなに困っても何とかしてくれるという強い安心感は何にも代えがたい。
 門も道も狭い顕微鏡の道を歩むときに、浜野さんという人の力を借りなければ、絶対にうまく行かない。
僕は学生時代、北海道の清澄な秋の空気感に包まれながら洞爺湖でプランクトンを見ていた。その時のせつなくなるほどの充実感と青春のとまどいとを思い起こしながら、僕は今なお顕微鏡を通してみる凛とした透明感が忘れられないでいる。それらは、どこか北海道の秋の緊迫した空気感に通じるものがある。どこまでもどこまでも、抜けるような透明感と命の緊張感を感じ続けていたいのではなかろうか。
■8月6日 甲府盆地にて
 甲府ではモモとブドウが今は盛りで、収穫の賑わいが盆地中に充満していた。かつて、ここにはモモの花咲く頃に来たことがあったが、偶然にもこの度、モモやブドウの収穫期に当たったことは、まさに幸運であった。
 果物の収穫に湧いている甲府盆地を楽しみながら、僕たちはそこを過ぎ、甲府市北部にある御岳昇仙峡というところに行く。この昇仙峡に仙蛾滝という滝があると聞いていたからだったが、ここは僕たちには最悪であった。いきなり駐車場代1000円で、馬に乗っていくか、歩いていくか?等と質問されるようなところであった。
 僕たちはこういった駐車料金をふっかけたり、渓谷を散策するのに馬に乗るなどといった、愚かな所業を嫌うので、すぐさま時間の無駄をしたことを悔いながら、次なる目的地である尾白川渓谷にむかった。
 尾白川渓谷(おじろがわけいこく)は南アルプスの甲斐駒ヶ岳の北東麓を流れ下る渓谷であるが、ここがいったいどういったところか知るわけもなく、ただその渓谷にある神蛇滝(じんじゃだき)という魅力的な滝を一目見たかっただけなのである。
 しかし、実際にその渓谷に足を踏み入れるやいなや、そういったちょっと立ち寄る程度のレベルの渓谷ではないことが直感的に分かる。
 駐車場からすぐのところは多くの水遊びの人が涼を求めて楽しんでいたが、その先はまさに絶景と呼ぶにふさわしい渓谷が続いていく。
 神蛇滝までは歩いて一時間半程度と聞いていたが、その途上にあまりにも魅力的なところが多く、もはや身動きがとれないほどで、ほとんど前には進めない。そして、とうとう神蛇滝に到達することができないまま、夕暮れが近くなり、神蛇滝を見ることのないまま、帰路に就く結果となった。
 しかしそれはそれ、心ゆくまで尾白川渓谷のすばらしさを感応できたと思っている。当然、再びここに来ることを誓ったことは言うまでもない。そして無論、その時には美しい神蛇滝の姿も見てみたい!としきりに思い思いした。
尾白川渓谷
■8月7日 柿其渓谷(かきぞれけいこく)へ 
 翌朝、尾白川渓谷から北へすぐのところにある八が岳の南麓にある吐龍の滝(どりゅうのたき)にむかった。吐龍の滝は八が岳からの伏流水なのだろう、あたりは冷んやりとしていて実に気持ちがよい。皆それを知ってのことだろう、多くの人でにぎわっていた。
 吐龍の滝を少し写してから、今度は御嶽山南部、木曽地方にある柿其渓谷を目指した。八が岳南麓から柿其渓谷への道のりは本来遠く険しい。何せ南アルプスと中央アルプスが立ちふさがっているからだ。南アルプスはいつも通り、茅野市を通る国道20号線で北側へ迂回してかわし、今度は伊那市から中央アルプスを貫く権兵衛トンネルを抜けて木曽地方へ、すなわち中央アルプスの西部へと進む。
 中央アルプスの西部は北アルプスの南部、御嶽山の南麓にあたり、木曽川沿いに国道19号線が並んで走るなじみの道路である。とはいえ、国道19号線ほどトラックなどの交通量の多いところは他になく、僕の大嫌いな道路の一つになっている。しかし、信州や木曽地方など山間では、道路も少なく、やむを得ず通らなくてはならない道でもある。
 こうしてしばし嫌いな国道19号線を南下し、ようやく柿其渓谷にたどり着いたときにはすでに夕暮れ近くなっていた。
 それでも、まだ時間があったので、どんな渓谷か下見に出かける。うっすらとであるが、その渓谷の美しさがまだ見える。明日が楽しみである。完全に暗くなるまで、ひとしきり撮影に没頭する。
柿其渓谷。思わず飛び込みたくなるような美しい淵。
第119号-3へ