■函館の港の成り立ち
函館の市街の中心を流れる川の名前を亀田川(かめだがわ)という。函館の街のお母さんは実はこの亀田川なわけです。この理由を話してみましょう。
多くの人が函館の夜景を見るケーキの台のような小さな山をご存じですか?。この山の名前は函館山といいます。函館山はアイヌ語でハコタップ“美しい小山”という意味で、函館(箱館)という名前の由来になっています。
さて、この函館山ができたのは今から2000万年前のことで、一度にできたのではなくて、何度も海底火山の爆発などを繰り返した後、1000万年前くらいにほぼ完成します。そして、最後の氷河期が終わり海面が上昇すると、陸から離れて島になります。函館島ですね。ところが、今度は函館島と陸の間に砂がたまり始めます。この砂をたゆまず運んでくるのが何を隠そう亀田川というわけなんです。そして、今から3000年前、この砂の架け橋は完成するわけですが、この砂の架け橋こそ将来函館の街の中心になっていくわけなのですね。
それと同時に、この砂の架け橋は、津軽海峡の荒波を遮断する、いわば防波堤の役目もになうことになるわけです。そして、この砂の架け橋と陸とで囲まれた静かな入り江こそが北海道の入り口でもあり、世界の窓口ともなった函館の港となっていくわけです。
こう見てくると、函館の港は函館山がお父さんで、亀田川がお母さんということになりますね。そして、函館は今なお、お父さんとお母さんにしっかりと守られながら美しく成長を続けているのですね。
■港を巡る人々の動き
さて、今度は函館の港を巡る人々の動きを見ていきましょう。
北海道はアイヌの地でした。そしてそのアイヌの地である北海道と本州の間では昔から長いこと交易がありました。そんな中、そこに住む人もいれば、交易のために出かけていく人もいました。そして、今から1000年ほどくらい前から本格的に住む人が増え始めます。それは、安藤氏とか河野氏といった偉い人が北海道道南の地に住むようになり、本州との交易を本格化することによるわけです。そして、その近海で採れるコンブを買いに本州からたくさん商船がやって来るようになります。函館近海産のコンブはとても質が良くて、大阪や京都などでとても珍重されたからです。そして、そのため、道南の各地には安藤氏や河野氏の居城となる館(お城のようなもの)がたくさんできて、この地を支配します。
ところが、室町中期までにこれらの館はアイヌによって攻められ、皆滅んでしまいます。そんな中、上ノ国に武田信広という人物がいて、彼を含めその子孫は非常に傑出しており、アイヌと親しくしながら繁栄し、松前の地に松前家を作っていきます。
そして、ついに5代目、松前慶広は初代の松前藩主となり、松前藩を成立させます。この間、箱館はどうなっていたかというと、アイヌに攻められたまま放置され、長いことゴーストタウンのようだったと言います。しかし、その代わりその対岸に当たる、亀田に定住者が増えていくのですが、亀田は亀田川が箱館に注ぐ河口の地で、亀田川の水便と松前からの交通の要衝の地であることから繁栄していくわけです。
しかし、亀田の繁栄も長く続きません。それは、亀田川に原因があり、亀田川が氾濫したり、大量の土砂を運んで港を浅くしたり、河口の場所を変えたりするので人々はそこから離れていきます。中でも、土砂が堆積して港が浅くなると、船が着かなくなるから、多くの船が亀田ではなくて、その対岸の箱館の方に着くようになるのです。こうなってくると、箱館の方が便利になるので、今度は箱館の方が栄え始めます。そして、箱館が栄え始めると、寺も役所もみな箱館の方に移っていきます。しかし、本格的に箱館が栄えるようになるのは、松前藩から幕府に政権が譲られ、正式に箱館が政庁の地として選ばれ、そこに箱館奉行所が造られてからになります。
■開 港
1853年3月、日米和親条約によってついに箱館の港は開港されます。下田と並んで日本で最初に世界に開かれたわけです。どうして箱館港なのか興味深いのですが、これはどうも日本海で捕れていた鯨と関係があるらしいのです。アメリカにとって、日本海の鯨を捕るためにはどうしても津軽海峡を通らねばならず、そのどこかで燃料を補給する必要があったのです。そして、1859年日米修好通商条約を締結。箱館港は横浜、長崎と並んで自由貿易港となります。この開港がそれ以後の函館の運命を大きく担うことになることは、よく知られることですね。
さて開港されると、大型の蒸気船が出入りできる港にしなくてなりません。それにしては函館港はあまりに浅かったのです。開港される前、函館港は福山(松前)江差、と並んで三港(さんみなと)と称され“綱知らずの港”と呼ばれる美しい遠浅の港でした。しかし、これでは外国の大型船が入ることができないから、明治新政府は港を深く掘り下げ、また亀田川をかけ替えることにします。亀田川は函館の港を作ってくれたお母さんだけれど、今度はこれ以上土砂を運んでもらうと港が埋まってしまうので明治26年亀田川は津軽海峡方面に切り替えられてしまうのです。
川が港を作り、そこに人が住む。すると、自然の成り行きが大きく変わっていくのですね。自然の時の流れに身を任せていれば、函館の港はとっくに亀田川が運ぶ土砂で埋まり、函館の街の姿もすっかり変わっていったでしょう。しかし、開港、そして外国船が入れる港へ、そして亀田川の切り替え、といった人為的な思惑によって、今なお当時の面影を残しつつそこにあります。どちらがよかったのでしょうか!それは人がそこに暮らし生きていく限り、永遠のテーマになっていくのでしょうが、歴史は自然の流れを変えて現在に向かって流れていきます。
■北洋漁業
開港の影響ははかり知れず、函館の文化、経済、産業を大きく進展させていきます。それに加え、日清、日露の両戦争は函館の産業を更に大きく発展させます。なかでも日露戦争の勝利は沿海州、カムチャッカ方面の漁業権を獲得させ、北洋への漁業を拡大にむかわせます。そして、この時期の北洋漁業は、動力船の導入、工場形態での缶詰生産といった手法で、資本主義的な漁業形態となっていきます。そして、この北洋漁業は長い間函館の経済を支え、函館の経済を進展させる大きな原動力になっていくのです。このように函館の港はコンブの集散地として栄えたその昔から、北洋漁業に至るまで、常に水産業が地元の経済界を支え、リードしてきました。そして、世界恐慌と駒ヶ岳の噴火、市内の昨日の2/3を失う大火などが一度に起こった昭和の始めなども“函館の景気は浜から”と、函館の人たちはまったく動じなかったといいます。そして、大火の翌年には盛大な第1回目の港まつりを挙行し、7月1日を開港記念日としています!ものすごいエネルギーですね。
しかし、そんな函館も第2次世界大戦の敗北で、北方での漁場を失い、北洋漁業の基地として栄えてきた函館はその産業の基盤である水産業を失ってしまいます。これは大変なことになってしまいました。
■現在から未来へ!
北洋漁業の衰退によって函館はその経済的基盤を失いますが、しかし、その結果かえって自分たちの身近な環境の美しさに気づくことになります。そして、北方遥か遠くの魚資源に頼る漁業ではなくて、自分たちの身近な海に目を向けるきっかけになっていきます。その昔から、函館はその東海岸で
採れるコンブの集散地として栄えてきました。今また、その時代と同じように、函館は地元の海に目を向け、地元の自然の美しさに目を見開き始めよとしています。そう、函館は類まれにみるほど豊かな自然環境に恵まれた街なのです。
開港、戦争によって大きく変わってきた函館の軌道はこれからはゆっくりとですが、自然が描いてきた軌道に戻ってゆくのかも知れません。
そして、ここに豊かな海があり、そして美しい港があり、山や川や空がそこにある限り、函館はいつまでも穏やかな表情が絶えない街になるのだと思います。つまり、僕は今まで長いことそうだったように、函館を支えてくれるのは、この身の回りの自然をおいて他にないと考えているのです。
“自然と一つになること”この気持ちが勇気を持って迎えられる日が来てほしいものです。そんなことを夢見ながら僕は今も函館の港を見続けています。
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